※本稿は、髙木まどか『吉原遊廓 遊女と客の人間模様』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
廓の主人の別荘で療養した遊女もいた
吉原に生きた人々と、廓外の人々のつながり――その解明はまだまだ途上ですが、周辺地域とのかかわりでいえば、興味深い点として、遊女屋の主人が廓外に別荘をもっていたことが挙げられます。遊女屋が市中に住もうとして叱責を受けたなんて話もありますが、吉原周辺に別荘を持つことは許されていたわけです。
どうして遊女屋は別荘をもっていたのか? その理由の一つとして、遊女の療養があります。吉原の遊女は廓外にでることを厳しく禁じられていましたが、病気の場合は例外的に、廓外に出ることが許されたのです。そして、今戸・山谷・箕輪といった吉原周辺にある「寮」と称された楼主の別荘へ出され、新造や禿といった妹女郎をつけ、快復に努めたといいます。
江戸時代の遊女の病としては、やはり梅毒が有名でしょう。遊女が梅毒で床につくことを、当時は「鳥屋につく」といいました。語源は諸説ありますが、梅毒で毛の抜けていくさまを、鳥が換毛するのに見立てたともいわれます。そして遊女が鳥屋につくと、楼主の別荘での療養が許された訳です。
病死した遊女が、素巻きにされ投げ込み寺に葬られることも
とはいえ、「大門を出る病人は百一つ」(吉原の大門から出られる病人は百人に一人)という言葉があったように、遊女の位が低かったり、快復の見込みがない場合、そうした待遇をうけることはできません。楼内に病室として設けられた薄暗い一室に押し込められ、いちおう医者にはみてもらえたそうですが、ほとんど看病はされず、食物も満足に与えられなかったといいます。
遊女が死去すると、江戸に遊女の親がいるときは引き渡しますが、親元が遠国のときは、粗末な棺桶に入れられ、投げ込み寺としてよく知られる三輪の浄閑寺や、日本堤沿いにあった西方寺に葬られました。といっても、筵に素巻きにされて投げ捨てられ、戒名さえつけてもらえないことも珍しくはなかったようです。