江戸幕府公認の遊廓・吉原が、大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)などで再注目されている。遊廓について研究する髙木まどかさんは「遊女は22、23歳頃までに年季が明けるなどして自由になれるが、そこまで生き延びられる人は少なかったと史料に記されている。彼女たちが若くして亡くなった原因は主に病気、それも感染症が多かった」という――。

※本稿は、髙木まどか『吉原遊廓 遊女と客の人間模様』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

十返舎一九著、喜多川歌麿画『青楼絵抄年中行事』上之巻(版元:上総屋忠助)1804年。
十返舎一九著、喜多川歌麿画『青楼絵抄年中行事』上之巻(版元:上総屋忠助)1804年。(出所=国立国会図書館デジタルコレクション

廓の主人の別荘で療養した遊女もいた

吉原に生きた人々と、廓外の人々のつながり――その解明はまだまだ途上ですが、周辺地域とのかかわりでいえば、興味深い点として、遊女屋の主人が廓外に別荘をもっていたことが挙げられます。遊女屋が市中に住もうとして叱責を受けたなんて話もありますが、吉原周辺に別荘を持つことは許されていたわけです。

どうして遊女屋は別荘をもっていたのか? その理由の一つとして、遊女の療養があります。吉原の遊女は廓外にでることを厳しく禁じられていましたが、病気の場合は例外的に、廓外に出ることが許されたのです。そして、今戸・山谷・箕輪といった吉原周辺にある「寮」と称された楼主の別荘へ出され、新造や禿といった妹女郎をつけ、快復に努めたといいます。

江戸時代の遊女の病としては、やはり梅毒が有名でしょう。遊女が梅毒で床につくことを、当時は「鳥屋につく」といいました。語源は諸説ありますが、梅毒で毛の抜けていくさまを、鳥が換毛するのに見立てたともいわれます。そして遊女が鳥屋につくと、楼主の別荘での療養が許された訳です。

病死した遊女が、素巻きにされ投げ込み寺に葬られることも

とはいえ、「大門を出る病人は百一つ」(吉原の大門から出られる病人は百人に一人)という言葉があったように、遊女の位が低かったり、快復の見込みがない場合、そうした待遇をうけることはできません。楼内に病室として設けられた薄暗い一室に押し込められ、いちおう医者にはみてもらえたそうですが、ほとんど看病はされず、食物も満足に与えられなかったといいます。

遊女が死去すると、江戸に遊女の親がいるときは引き渡しますが、親元が遠国のときは、粗末な棺桶に入れられ、投げ込み寺としてよく知られる三輪の浄閑寺や、日本堤沿いにあった西方寺に葬られました。といっても、むしろに素巻きにされて投げ捨てられ、戒名さえつけてもらえないことも珍しくはなかったようです。