※本稿は、髙木まどか『吉原遊廓 遊女と客の人間模様』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
江戸時代、吉原が「ありんす国」とも呼ばれたワケ
遊廓を題材とする映像作品で、遊女が「ありんす」という言葉をつかっているのをよく耳にしますよね。「わっちは百姓の娘でありんす」とか、「野暮は嫌いでありんす」とか。この「ありんす」という言葉、いったい何なのかといいますと、遊廓において遊女が日常的に用いた特別な言葉遣い=廓言葉(くるわことば・さとことば)です。吉原は「ありんす国」と呼ばれていたほどですが、他には「わっち」(私)、「なんし」(なさいます)なども有名でしょう。
高級遊女をさす「花魁」も、もとは見習いの少女である禿が自分の姉女郎を「おいらの」と呼んだことからはじまる廓言葉といわれます。少し前の漫画でよくみかけた「ざんす」も、実は、もとを辿れば廓言葉です。上品ぶったひとが使うイメージの言葉ですが、これはのちに東京の山の手の奥様方が「ざんす」を使うようになったためといわれます。
こうした有名な廓言葉以外に、お店ごとに特有の廓言葉も沢山ありました。しかし、そもそも廓言葉はどうして使われたのでしょう?
それは、遊女がつかっていたもともとの言葉を隠すためです。江戸初期の大坂の遊女評判記『満散利久佐』では、玉蔓という遊女が、「物言いが訛っていておかしい」と批判されています。
もし天女だと思っていた遊女が田舎の方言で話したとしたら…
現在では訛りがあるといっても、言っていることがまったくわからないという事態は起きにくくなってきました。しかし、明治半ばに至るまで、日本は「言語(話し言葉)不通」、つまり一歩外にでると言葉が通じない世界だったともいわれています。遊女たちは、生まれた土地も親の身分もそれぞれです。遊女同士が互いにコミュニケーションをとるのはもちろん、お客に応対するにあたって、共通の言語が必要とされたのは当然です。
通じないとはいかないまでも、遊女の訛りが嫌がられたのは、先の『満散利久佐』にもみえたとおりです。天女のように憧れていた遊女とようやく会えたと思ったら、ものすごく訛っていて、田舎の貧しい出であることが丸わかりだった……なんてことになれば、客の夢を壊しかねません。そうした言葉の問題を解決するために考案されたのが、廓言葉です。いつから使われるようになったのかははっきりしませんが、そのベースは京都の島原遊廓で考案されたといわれます。どこの生まれでも訛りが抜けやすい、勝手の良い言葉だったとか。