秀吉によって前夫と離婚させられた?

なお朝日については、前夫がいて、それと離婚のうえで家康と結婚したことが伝えられている。しかしそのことを伝えるのは、いずれも江戸時代中期以降に成立した史料にすぎない。しかも前夫についてはまちまちで、「佐治日向守さじひゅうがのもり」(「改正三河後風土記」)、「副田甚兵衛」(『武家事紀』)、「副田吉成」(「尾張志」)などとされている(中村孝也『家康の族葉』)。

しかし佐治家に日向守なる人物は存在せず、副田氏の存在は当時の史料で確認されない。そのためこれらの所伝が、事実なのかどうか確認する材料すらないのが実情である。

最も成立年代が古いのは『武家事紀』で、但馬多伊城の守備を務めていたが、一揆の攻撃をうけて同城を失うという失態により、秀吉によって朝日と離婚させられたことが記されている。所伝のなかではもっとも自然な内容に思われる。

前夫の名が本当に「副田甚兵衛」であったのかは確定できないが、何らかの理由で離婚となり、その後は秀吉のもとで生活していたことは間違いないように思う。そうしたところに家康を従属させるにあたって、思わぬ役割を担うことになった、ということであったろう。

「妹婿」として実弟・秀長と同等の地位に

家康は、天正14年(1586)10月に、羽柴(豊臣)秀吉に出仕したことで、羽柴(豊臣)政権に従属する「羽柴(豊臣)大名」の1人になった。しかし秀吉への出仕に先立って、家康は秀吉の妹・朝日(南明院殿)を正妻に迎えていたため、政権主宰者の秀吉との関係は、妹婿にあたった。そのため家康の立場は、当初から他の旧戦国大名や旧織田家家臣らとは異なる、格別なものであった。

秀吉に出仕した直後の11月5日、秀吉に随従しての参内にともなって、家康は正三位・権中納言に叙任されたが、これは政権下の大名のなかでは、権大納言の織田信雄に次ぎ、秀吉実弟の秀長と同等であった。秀長に次ぐ羽柴家一門衆は、甥のなかで最年長の秀次であったが、その官職は参議で、家康のほうが上位に位置した。

「豊臣秀長像」、奈良・春岳院蔵
「豊臣秀長像」奈良・春岳院蔵(CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀吉は自身が関白に任官したことにより、政権における武家領主の身分制について、官位序列による新しい政治秩序を形成していた。家康はそこで、信雄に次ぎ、秀長と同等の地位に位置付けられている。しかも秀吉・秀長の次世代の一門衆よりも上位に位置した。それは家康の立場が、秀吉の妹婿であったからであった。そうした家康の立場は、羽柴家の親類大名ととらえることができ、かつその筆頭に位置したのであった。