正妻・別妻がいる中で、茶々と結婚
秀吉の正妻は、木下寧々(高台院)であった。福田氏は秀吉の別妻には、茶々・松の丸殿・三の丸殿(織田信長娘、?〜1603か)・加賀殿(前田利家娘、1572〜1603)の、少なくとも4人がいたことを指摘している(『淀殿』)。
茶々以外の人物で、秀吉の別妻となっていたことが確認できる時期は、松の丸殿が天正18年3月、加賀殿が同年7月、という具合であり(桑田忠親前掲書)、史料の残存状況により、必ずしも早い時期から確認されているわけではない。
ただし松の丸殿については、天正12年に兄高次が秀吉の直臣に取り立てられたのは、松の丸殿が秀吉の別妻になっていたことにともなう、と考えられている。この推測は妥当性が高いとみなされるので、その頃には秀吉の別妻になっていたとみてよいであろう。
また加賀殿については、同14年5月に初めて上洛していることが確認されており、秀吉の別妻になったのはその直後のこととみなされる。
そうすると、茶々が秀吉と結婚した時期には、すでに松の丸殿が、あるいは加賀殿も、秀吉の別妻として存在していた可能性が高くなる。
妊娠を機に、聚楽第から茨木城へ
もっとも秀吉が茶々に求婚したのは、それらよりも早く、北庄城から退去したのち、おそらく茶々が秀吉に同行して姫路城に移る頃のことであったと思われる。しかし茶々は、妹たちの結婚の取り計らいを要請し、それを優先させており、それが遂げられたうえで秀吉と結婚したのであった。そのため松の丸殿たちよりも、秀吉との結婚時期が遅くなってしまったのであった。
しかし茶々の存在は、その他の別妻とは異なり、格別なものであったとみなされる。それがすなわち、妊娠である。茶々は、天正16年10月には妊娠しており、それにともなって秀吉の差配によって、摂津茨木城(茨木市)に移っている。
それまで茶々は、秀吉の京都での本拠・聚楽第が完成すると、正妻の木下寧々らとともに、同所に移住していた。それが妊娠にともなって、茨木城に移ったのである。それは茶々の出産を、淀城でおこなうことが予定されていて、同城の拡張工事が翌年初めから開始されるが、その工事完了までの措置としてであった。
