なぜ茶々の妊娠・出産だけOKしたのか

しかも秀吉は、茶々を茨木城に移すことについて、正妻の木下寧々に差配を命じている。これは極めて重要な事実を示している。これにより茶々の妊娠は、寧々の承認のうえでのことであったこと、さらにはその子どもの出産についても、寧々の承認のうえでのことであった、ということが認識されるのである。

正妻は、別妻や妾の承認、さらにはその子どもの出生について承認する権限を有していたと考えられる(拙著『武田信玄の妻、三条殿』『家康の正妻 築山殿』)。このことを踏まえれば、茶々が秀吉の別妻になること、そして秀吉の子を妊娠すること、さらにその子どもを出産すること、すべて寧々の承認があったからこそ実現された、と考えられるのである。

そしてここで考えるべきことは、秀吉は数多くの別妻と妾をもっていたにもかかわらず、なぜ茶々だけが子どもを産んでいるのか、ということである。

それは寧々に視点を据えて考えてみると、寧々は、茶々にだけ子どもを産むことを承認した、と考えることができる。

高台院(寧々)
高台院(寧々)(写真=高台寺/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

「秀吉の実子論争」には盲点があった

これまで茶々しか秀吉の子どもを産んでいないことから、秀吉には子どもをつくる能力が乏しいと考えられてきた。それゆえに茶々だけが子どもを産んでいることについて、本当に秀吉の子どもかどうか、という疑惑の目を向けることもみられていた。しかしそれらの考えは、正妻の承認権を見過ごしたものになる。

徳川家康の次男秀康や、徳川秀忠の四男保科正之が、当初、子どもとして認知されていなかったが、それは正妻の承認をえての誕生ではなかったことによる。それだけ正妻の承認権は強かったとみなされる。茶々の場合についていえば、寧々は茶々にのみ、秀吉の子どもを産むことを認めた、と考えるべきなのである。

ではなぜ、茶々だけが秀吉の子どもを産むことを認められたのか。それは茶々が、織田家一族の立場にあったことによると考えられる。