将軍の後見役として勢力を広げる信長

足利義昭は室町幕府将軍に就任し、信長はその後見役になった。実質的な政治的地位は、将軍を補佐する管領かんれいに匹敵するものであった。

その上洛戦にも、長政は軍事動員をうけ、足利義昭に供奉している。これは名目的には、足利義昭に供奉したものであったが、実際の軍事行動は信長によって指揮されていたので、実質的には信長の軍事指揮下におかれたのと同意であった。しかもこの時、信長は六角家を滅亡させて、その領国を併合した。それにより長政は、領国を信長の領国に挟まれるかたちにおかれたのである。

足利義昭によって再興された室町幕府において、長政がおかれていた地位については、元亀元年(1570)正月に知ることができる。信長は、幕府配下の大名・国衆に、禁裏御所きんりごしょの修造と将軍への奉公のために上洛を命じるが、そこで長政については、「京極殿(高吉)〈同浅井備前(長政)〉」と記されている(『増訂織田信長文書の研究上巻』210号)。

幕府配下の大名として、長政の旧主である京極高吉があげられていて、長政はその補佐役としての位置付けにあった。しかもそれに続いて「同尼子・同七佐々木・同木村源五父子・同江州南諸侍衆」と記されている。

朝倉家にも信長にも従属する立場に

これらは永禄11年以降に、長政が経略もしくは盟約関係を形成した地域の国衆であった。広義でみれば長政の領国とみることもできるといえるが、それらも含めて、名目的には京極家が近江国主の地位におかれ、その領国と位置付けられていたことを示している。

そして信長自身は、長政について「彼等(長政)の儀、近年別して家来せしむ」(同前245号)と評し、その敵対についても「浅井備前守別心し色をうる」(同前)、「手の反覆の体」(同243号)というように、自身に従っていた存在であった、という認識を示している。

幕府の政治秩序のうえでは、近江国主は京極家で、長政はその補佐役であったが、京極家の領国と認識されていたものは、事実上は長政の領国であり、その長政は信長の従属下にあった、という認識であったと考えられる。

この意味において長政は、信長に従属する国衆の立場にあった、とみなされる。実際にもその軍事指揮下で行動していたのであるから、長政自身も、実質的にはそのような認識にあったことであろう。

このことから長政は、足利義昭の上洛戦に供奉して以降は、信長にも従属する立場にあったとみなされる。長政はもともと、朝倉家に従属する立場にあったが、以後は、信長にも従属する関係になったといえ、すなわち両者に両属する立場にあった、とみなされる。