信長「まさか長政に裏切られるとは…」
このことを知った信長は、
然れども、浅井(長政)は歴然御縁者たるの上、剰え江北一円に仰せ付けらるるの間、不足これあるべからざるの条、虚説たるべき、
と、にわかに信じることができなかったことが伝えられている(『信長公記』前掲刊本107頁)。
これによれば信長は、長政は妹のお市の方と結婚しており、親密な婚姻関係にあったうえ、近江北部一帯を領国として与えていたから、長政に信長に対して不満があるはずはない、という認識にあったことが知られる。
しかし信長は、長政が朝倉家に従属する存在であったことを、忘却していたとしかいいようがない。長政にとっては、朝倉家への従属関係は、信長との友好関係よりも10年近くもさかのぼるものであった。長政はその関係を尊重したのであった。
平穏な結婚生活は2年半で終わった
ちなみに江戸時代成立の軍記史料では、長政が信長と同盟を結ぶ際に、朝倉家との関係維持を条件に、敵対の場合にはあらかじめ通知することを要求し、信長はそれを承認したにもかかわらず、そのことなしに朝倉家攻めをおこなったため、信長から離叛した、という展開が記されている。
さもありうるようにも思えるが、当時の状況にてらしてみるとありえないであろう。長政と信長が同盟を結んだ時に、信長と朝倉家は敵対関係にあったわけではなく、むしろ足利義昭を擁立するという点で、協力関係にあったとみなされるからである。先の話は、長政が朝倉家支援のために信長から離叛したという結果をもとに、後世の人々が想像したものというべきであろう。
ここに長政は、信長と敵対関係となった。その後、信長との間で熾烈な攻防を展開していくのであった。それは3年後の天正元年(1573)9月に、長政が信長により滅亡させられるまで続いた。そしてこれによってお市の方は、実家とは敵対関係におかれることになった。長政と結婚してから、わずか2年半後のことであった。

