両属条件は「大名家同士の仲が良い」こと

ところで、そのように二つの大名家に両属することができるのか疑問にもたれるかもしれない。しかし戦国大名領国の境目地域に存在する国衆には、そのような事例は珍しいことではない。

ただしその状態が可能なのは、上位に位置した二つの戦国大名家が友好関係にあったことが前提になる。例えば、東美濃国衆の岩村遠山家や苗木遠山家は、信長と甲斐武田信玄との両属下にあったし、上野国衆こうづけくにしゅうの国峰小幡家は相模北条家と武田信玄との両属下にあった、という具合である。

この長政の場合も、朝倉義景は、将軍足利義昭配下の大名として位置していたので、それに問題はなかった。ただし朝倉家と信長に直接に友好関係は成立してはおらず、あくまでも足利義昭を通じての関係でしかなかったが、それでも両者が敵対関係にあったわけではなかったから、両者への両属関係は問題なく成立しえたのであった。

長政は迷わず「朝倉義景の支援」を選んだ

しかしその状態は長くは続かなかった。信長は元亀元年正月に、足利義昭への奉公を名目に、朝倉義景に上洛を命じたらしい。それは事実上、朝倉家が信長に従属するかどうかを意味した。

朝倉義景画像<複製>
朝倉義景画像<複製>(写真=湖北町所蔵/ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

この時期、若狭武田家は朝倉家の庇護下におかれていて、若狭は事実上、朝倉家の領国に編成されるような状態にあった。そのなかで武田家の重臣に、朝倉家による支配を受け容れず、抵抗する存在があり、それが将軍足利義昭に庇護を求めていた。

足利義昭は、これを受け容れ、その反対勢力で朝倉家に従っていた敦賀武藤家の討伐をはかり、それを信長に命じた。そして信長は同年4月に、越前に向けて進軍した。それに対して朝倉家は、領国防衛のためそれに敵対したのである(柴裕之『織田信長』)。

こうして信長と朝倉義景は、敵対関係になった。ここでいずれに味方するかという進退を迫られることになったのが、長政であった。どのような経緯があったのか、当時の史料には全くみえていないが、長政はすぐさま、足利義昭・織田信長から離叛し、朝倉義景を支援する立場をとった。

信長が越前に侵攻し、朝倉家の属城の手筒山てづつやま金崎かねがさき両城(敦賀市)を攻略したことをうけて、長政は信長から離叛し、朝倉家支援のため、越前に向けて進軍するのであった。