顔面に矢を受けながら敵の首をとった利家

この稲生合戦というのは、信長が自分の弟武蔵守信行と戦った合戦で、どういうわけで兄弟が不和になったかは織田信長伝で書いた。

藩翰譜も寛政重修諸家譜も、稲生合戦は逸してはいないが、利家19の時のこととして、記述している。しかし、「亜相公御夜話」は前掲したのとちがった項で、16の時であったと記している。

信行の小姓頭の宮井勘兵衛が利家を弓で射て、右の眼の下にあてた。利家は勘兵衛に馳せより、槍でつき伏せて首をとり、信長の実検にそなえたので、信長は感賞したというのだ。重修諸家譜ではこの際利家は目の下に射つけられた矢をぬきもせず宮井をつき伏せ、矢をおりかけて信長の前に出て首を捧げたので、信長その壮勇を賞して、百貫文の知行を加増してやったとある。

この頃のこととして、両書とも、利家が信長の勘気にふれた事実を述べている。信長の同朋どうぼうに十阿弥という者があった。同朋は江戸時代にはお坊主といわれるようになったもので、城内の給仕役で、至って身分の低いものであった。

この同朋の十阿弥が利家の刀のこうがいを盗んだ。小束こづかとともに脇差にさしてあって、耳を搔いたり、髪の地肌を搔いたりする用にあてるものだ。多分金銀のほりものかぞうがんかをしたきれいなものだったので、身分賤しければ品性も下等で、つい盗心をそそられたのであろう。利家は怒ってこれを斬った。

信長お気に入りの給仕役を斬ってしまった

このいきさつも「亜相公御夜話」にくわしい。

利家は信長に訴えて許可を得て成敗するつもりでいたところ、かねてから十阿弥をひいきにしている佐々内蔵助成政らが、とりなして、

「ゆるしてやってはくれまいか。以後は決して不都合はさせぬゆえ」

と頼む。

「いやいや、盗心は生まれつきのものが多い。常にわれわれの身近かにある者のこと、将来のために斬ったがよい」

と利家は聞こうとしなかったが、そのうち信長がこれを聞きつけた。信長も十阿弥が気に入っている。

「こんどだけはゆるしてやれい」

という。

やむなく、利家はゆるすことにしたが、間もなく前に詫言わびごとをしてやった連中が、「かげにて笑ひ候由をお聞きなされ候て」とあるから、当時の武士のことで、

「武士が斬ると口外した以上、いくら殿から仰せられようと、斬らぬということがあるものか。途中で思いかえすくらいなら、言い出さぬがよいわ。とかくなまぬるい男よ」

とでも言ってあざ笑ったのであろうか。

とにかく利家は腹を立て、信長が二の丸櫓に出ている時、その下の道で、十阿弥を斬った。