光秀最期の地はどこか

勝龍寺城に籠城した兵卒は約3000ほどだったと見られているが、戦況の打開策が見出せないため脱走者が相次ぎ、すぐに700ほどに落ち込んでしまったという。

光秀も13日深夜、再起を期してわずかな手勢と共に城から脱したが、落ち武者狩りに遭って命を落としたという。

最期の地は「小栗栖おぐるす」とされている。現在の京都市伏見区に「明智薮あけちやぶ」と名づけられた場所があり、光秀はここで死んだ――と、伝承ではそうなっている。

ただし小栗栖の地名は同時代の史料には見られず、「醍醐だいごあたり」(『兼見卿記』『言嗣卿記』)、「山階やましな」(『多聞院日記』)、「山科薮中やましなのやぶなか」(『浅野家文書』)などと記されているのみ。これらの記述から醍醐(京都市伏見区)、山科(京都市山科区)を結ぶ約3km圏内のどこかで死んだと、認識して良いのではないだろうか。

『月百姿 山城小栗栖月』は、落武者狩りで光秀を狙う農民の姿を描いている。国立国会図書館所蔵。
『月百姿 山城小栗栖月』は、落武者狩りで光秀を狙う農民の姿を描いている。国立国会図書館所蔵。出典=国立国会図書館デジタルコレクション(参照:2026年7月24日)

新史料が暴いた秀吉の嘘?

さて今年3月、日本中近世史研究の馬場隆弘氏が「山崎の合戦に遅参した羽柴秀吉」というセンセーショナルなタイトルの論考を発表し(『戦国史研究』/戦国史研究会)、話題となった。

馬場氏が入手した新史料(秀吉の直筆書状)は天正10年6月13日、つまり山崎の戦い当日に書かれたもので、内容は「14日に山崎から進んで西岡(光秀が籠城した勝龍寺城のある一帯)へ進撃する」と、秀吉本人が書いているという。

6月13日、秀吉はまだ山崎から12km離れた摂津の富田にいて、この書状を書いた。一方、戦端が開かれたのは冒頭に述べた通り13日午後4時頃。つまり戦いが開始されたとき、秀吉は山崎にいなかった可能性がある――間に合わず遅参したというわけだ。

馬場氏はこの説を証明するものとして、合戦4カ月後に書いたと思しき、似通った書状の案文が二つ存在することを挙げている。

①12日に富田で1泊し、13日の昼に織田信孝(信長三男)を迎え、14日に池田恒興と同道して山崎へ行き、清秀と右近の先陣争いを制した。

②12日に富田で恒興との先陣争いを制し、かつ山崎の陣取り(布陣)を決定。富田で1泊し、13日昼に信孝を迎え、その晩に山崎に着陣した。

馬場氏は①は素案、②は推敲だったのではないかと推理している。①だと13日午後4時には到底間に合わないが、②なら13日夜には山崎に着陣し、勝龍寺城の包囲には参加でき、光秀追討にはギリギリ間に合ったように“ほのめかす”ことはできる。つまり遅参していないと“訴えているように”見えるわけだ。

秀吉は戦闘に間に合わず、参戦していない。そして、それを隠そうとしていた――そう考えられるというのが「遅参説」の骨子である。