光秀を仰天させた誤算

太閤記』の軍勢の数字は、そのまま鵜のみにできない。歴史学者の高柳光寿氏は、明智は羽柴の3分の1程度だったと見ており、それを『太閤記』に当てはめると明智1万、羽柴3万というのが、実態に近い数字ではなかったかと考えられる。

光秀は当初、秀吉本隊の大返しを想定していなかったようで、池田・高山・中川ら摂津衆との戦いを見込んでいたフシがあった(『歴史道Vol.13』朝日新聞出版「山崎の戦いを克明に追う!」和田裕弘氏)。ところが秀吉が備中高松から戻ってきたことを知り、「案のほかなることかな、と存じ、仰天」した(想定していなかったので驚いた/『太田牛一旧記』)。

自軍より遥かに多い敵勢を前にしても、光秀は強気だった。先陣を務める摂津衆に先制攻撃を仕掛け、戦いを有利に動かそうと意気込んでいたのかもしれない。

しかし、戦いが始まると羽柴軍の士気は高く、逆に明智軍は浮足立っていたようだ。大将の光秀が「謀叛人」の負い目を抱えていたことが、兵たちの戦意を鈍らせた可能性はあっただろう。何より羽柴軍は圧倒的に数で優っており、短時間で決着がつくのも無理のないことだった。

光秀が陣を置いた恵解山古墳。
写真=フォトライブラリー
光秀が陣を置いた恵解山古墳。

勝敗を決めた知られざる功労者

さらに天正10年10月18日付の秀吉書状が、布陣などを詳しく伝えている。ただし、秀吉本人のいわば“自己申告”ということを割り引く必要があるのを前提に読んでもらいたい。

秀吉書状によると、秀吉軍は三方向から進軍したとある。戦場を貫く山崎街道には高山右近、中川清秀らがいて、その後ろに丹羽長秀と織田信孝が陣取った。

街道の東を流れる淀川沿いには池田恒興に、秀吉配下の加藤光泰かとうみつやす中村一氏なかむらかずうじらが加わった。

さらに西の山の手からは羽柴秀長はしばひでなが黒田孝高くろだよしたか神子田正治みこだまさはる前野長康まえのながやすらが進軍。なお、この山の手の攻防を「天王山の戦い」と称し、明智軍と黒田孝高・堀尾吉晴ほりおよしはるらが激戦を繰り広げて占拠に成功したという戦記が伝わっているが、この戦いの史料はなく、本当にあった戦闘なのか疑問視されている。

光秀軍の先鋒だった伊勢貞興、諏訪盛直らは秀吉の先陣・高山右近と攻防を繰り広げていたが、中川清秀が左側面に回り込み、池田恒興が右側面から包囲すると、劣勢は明らかとなった。

勝敗の帰趨を決したのは淀川沿いの池田恒興隊の活躍だった。

貞興と盛直はここで討ち死にし、後方の御坊塚おんぼうづか恵解山いげのやま古墳)に陣取っていた光秀も勝龍寺城しょうりゅうじ(勝竜寺城ともいう)へ撤退。前線の兵士たちは四方八方へ逃走した。戦死者は膨大な数にのぼったはずだが、実数はわからない。