信長の実績主義に、村重は耐えられなかった
この記事を書くにあたって、天野忠幸氏の著書を参考にさせてもらった。氏は、村重研究の第一人者である。村重が置かれていた状況を冷静に分析し、一概に敵前逃亡したとはいえないだろうと述べ、その理由として下記を挙げる。
・尼崎城にはすでに本願寺に味方する雑賀衆らも籠城しており、村重1人の判断で降伏を受け入れるわけにいかなかった
・降伏すれば有岡城の者たちの命は助けるという信長の約束を、信じていなかった(つまり、降伏したところで皆殺しにされる)
天野氏の説によって、村重はいくらか「名誉挽回」を図れたといえるだろう。
とはいえ、やはり高評価は与えづらい武将ではないかと思う。
信長は、人を評価するのに時間をかける。例えば播磨攻めが始まった天正5年の時点で、秀吉と滝川一益は信長に臣従して20年以上、明智光秀は約10年、柴田勝家に至っては信長が誕生したときから、織田家譜代の家臣だ。
信長に仕え、地位を得るには、長い時間と忍耐を要するのである。対して村重は、まだ4年足らずだった。村重だけではない。松永久秀も別所長治も、10年にも満たない段階で信長に反旗を翻した。時間が、村重たちには重くのしかかったのかもしれない。
また、信長はすでに嫡男・信忠に家督を譲って次代の体制づくりに着手していた。そうした状況下では、新参者の重用に慎重にならざるを得なかったのだろう。信長から見れば、村重はまだ忠勤が足らなかったのではあるまいか。
課題を次々と与え、乗り越えてから優遇する、徹底した実績主義が信長だ。村重の挫折には、次々と高い命題を課せられ、成果を求められた末に脱落していった人々の姿が重なる。
参考図書
・天野忠幸『戦国期三好政権の研究 増補版』(清文堂出版、2015年)
・天野忠幸「有岡城の戦い」日本史史料研究会監修・渡邊大門編『信長軍の合戦史』(吉川弘文館、2016年)
・太田牛一著、中川太古訳『現代語版 信長公記』(新人物文庫、2013年)


