孝高幽閉のウソ・ホント
約1年にわたった有岡城の戦いは、村重を説得するため単身で乗り込んだ黒田孝高(官兵衛)が、城内に幽閉されたことでも知られる。6月19日から公開される映画『黒牢城』も、この出来事をテーマとしている。
有岡城から戻らない孝高を疑い始めた信長は、孝高から人質として取っていた子の松寿丸(のちの黒田長政)を殺せと、秀吉に命じた。
松寿丸は秀吉の居城・長浜城にいた。困った秀吉が竹中半兵衛に知恵をあおぐと、半兵衛は松寿丸を匿い、別の子供の首を信長に提出した。秀吉―半兵衛―孝高の信頼関係を物語る逸話であり、『黒田家譜』に記された史実とされている。
なお、孝高が幽閉から解放されるのは有岡城開城まで待たねばならず、半兵衛はその約5カ月前の天正7(1579)年6月に没した。
俗説では、孝高は城内の光がわずかしか射し込まない土牢に幽閉されたというが、兵庫県立考古学博物館による城の発掘調査では、土牢の存在は確認されなかった。
つまり「劣悪な環境での幽閉」とは創作であり、実際には世話人もいた状態で閉じ込められていたのではないかと、考えられるという。
「播磨は自分に」村重の誤算
村重は、なぜ信長に背いたのだろうか。さまざまな説があるが、前述の天野忠幸氏は「石山本願寺との連携説」を挙げており、説得力も高いと思える。
村重と本願寺とのあいだで交わされた「契約」を示す、天正6(1578)年10月17日付文書があるという。10月17日は、村重が謀反を起こす直前だ。主な内容は次の通りだ。
・本願寺は武家の所領には関与しないので、信長滅亡後に村重が摂津を有することに異存はない
・村重が摂津の他にも領地が欲しいなら、本願寺は元室町幕府将軍の足利義昭や毛利輝元に口添えする
完全な裏取引である。しかも本願寺のみならず、足利義昭や毛利輝元の関与もうかがえる。
実際、村重は信長に対し、不満を溜め込んでいた可能性が高い。例えば天正3(1575)年頃、信長に味方するよう播磨の土豪たちを説き伏せ、信長に取り次ぎ、人質の徴収などを行っていたのは村重だった。
この流れでいけば、信長はいずれ「自分に播磨を与えてくれるだろう」と、村重が皮算用しても不思議ではない。しかし播磨攻略の司令官としてやって来たのは、秀吉だった。
そうした状況下で天正6(1578)年2月、播磨・三木城(兵庫県三木市)の別所長治が信長を裏切った。さらに本願寺は、相変わらず信長に抗っているし、足利義昭と毛利もいる。
どうやら彼らと共に信長と戦った方が得策だ――村重はそう判断したと考えられる。

