戦況挽回を図るが、またしても誤算
有岡城攻防戦は当初、村重に有利な展開を見せた。天正6(1578)年12月8日、信長は城を力攻めしたが、2000人の犠牲者を出すだけだった。有岡城の守りは堅かった。
信長は力攻めを断念し、周囲に付城(砦)を設置し、兵糧攻めに転じた。大坂湾と有岡城をつなぐ猪名川などの河川も封鎖し、補給も絶った。また、村重配下の高山右近、中川清秀らの武将も信長に帰属しはじめ、次第に追い込まれていく。
天正7(1579)年9月2日、村重は供の者5〜6人を連れ、こっそりと有岡城を抜け出し、約8キロメートル北にある尼崎城に移った(『信長公記』)。この行動が後世、有岡城に妻子や家臣を残したままの“逃げ腰”と捉えられた。
実は、本願寺と有岡城をつなぐ海沿いに位置する尼崎に移り、毛利の援軍を待って戦線を立て直そうとした策であり、決して敵前逃亡ではなかったという(天野)。
だが、誤算が生じた。毛利と結んでいた宇喜多直家が秀吉に調略され、織田方に付いてしまった。このことは宇喜多が支配する備前・美作(岡山県東部)が実質的に秀吉の影響下に置かれたことを意味する。
村重の尼崎城入りは、確かに戦況挽回をはかるためだったかもしれない。だが、城主不在となった有岡城の士気低下は避けられなかった。ましてや補給がいつ届くかもわからず、西の味方・宇喜多まで失ってしまった。
織田方の方が一枚上手で、村重は先を読む目が甘かった――失態と指摘されても、やむを得ないと思う。
降伏を拒んだ代償は約500人の命
村重の尼崎城移転は極秘事項だったが、時期ははっきりしないものの10月に入ると露見したようだった。そして同月15日、総攻撃が始まった。すでに滝川一益の調略によって、城内の足軽大将らはことごとく織田に寝返っていた。
城と城下への放火も相次ぎ、京・吉田神社神主の吉田兼見の日記『兼見卿記』によると、城の大半は焼け落ちたという。それでも中には、村重に従う者たちが踏ん張っていた。
11月9日、そのうちの1人、荒木久左衛門が織田と交渉し、村重の降伏を条件に城内の者たちを助命するという約束を得て、尼崎城の村重と会った。だが、村重は降伏を受け入れなかった。久左衛門も万策尽きたのか、そのまま逃亡してしまった。
信長は荒木の当主と重鎮たちが命を惜しみ、家族を捨てたとして、城内に残った約500人を見せしめに処刑した(『信長公記』)。
こうして戦いは終わった。家族・家臣を見捨てた逃げ腰の武将・村重と、数百人を殺戮した残虐な信長という、後味の悪さを印象づける戦いだった。

