「100の質問」を考え、答えも準備
1990年代前半、四十代半ばを過ぎて、よく「100」という数字を口にした。医薬営業企画部長のときで、何か交渉事や取締役会にかける案件があると、部下に「100の質問、100の疑問に答えられるように、あらゆる角度から検討しろ」と命じた。
交渉事や案件を「必ずやり遂げる」という、強い意志の表れだ。100もの質問や疑問を考え出すには、あらゆる情報を集め、精査して理解しなくては、難しい。それは、自らにも課してきた。これが提案力と説得力を生み、ゼロから始めた医薬事業を育て、優良分野へ導いた大八木流の源泉だ。
ただ、部下たちは、ときに悲鳴を上げた。夕方に「明朝までにやっておけ」と、100の質問や疑問と答えをまとめるように言い、取引先との会食に出る。担当者は「朝までやるか」と覚悟するが、真夜中に職場へ戻って「できたか?」と聞く。「まだ、できていません」と答えると、「能率が悪いな、食事にいこう」と連れ出す。
そこで飲んで天下国家を語り、カラオケで歌って帰る。そして、翌朝に「100個の質問と疑問はどうした」と催促する。働き方改革が叫ばれる前に、そんな仕事の進め方は消えたが、当時は活力のある組織では「当然」とされた。
100という数字の基には、ある体験がある。94年、初めて中国へ出張する際だ。念願の全国自社販売の実現を目指す一方で、成長への布石として海外展開を進めていた。その一環で93年に中国進出を考え、上司に「中国市場を攻めます。北京から入るか上海から入るか、広州から入るか。市場を調査したいので、出張にいかせてほしい」と申請した。
すると、こう告げられる。「中国を知るには、100の項目を調査するくらいでないと、基本的なこともわからない。自分は、北京に小学校6年までいた。親父も、中国で過ごした。その知見からすれば、準備不足では所詮、中国人の掌に乗せられるだけ。中国人はどう考えるのか、中国社会がどういうものかを問う100の質問を、つくってみせろ」
懸命に考えた。でも、68問までしかつくれない。上司に「申し訳ありません。でも、いかせてほしい」と言うと、「じゃあ、やり方を教えてやる。主なことで10問考えろ。考えたら、それぞれにつき10問を考えるのだ。分かったな」と教わった。言われた通りにやると、確かに100問ができた。