ゼロから出発した「医薬医療」事業

1994年ごろのことだ。大阪市の本社で開かれた取締役会に、ある提案書を出した。自社で開発した医薬や海外の薬品会社から販売権や生産免許を取得していた医薬を、全国で自力で売る「全国自社販売」(全国自販)を起案し、自ら説明に赴いた。46、47歳で、医薬営業企画部長だった。

帝人 取締役相談役 大八木成男

全国自販は、長年、「必ず実現する」と抱いていた大きな夢。帝人は医薬の販売を、78年につくった子会社で80年に始めた。開業医への販売は、隣の医薬営業推進部が特約店を通じて扱い、医薬営業企画部は病院を回る。ただ、自社販売は首都圏のみで、他の地域は別の医薬会社に販売を委託した。だから、ずっと、達成感がない。

入社6年目に医薬部門へ異動したが、販売子会社ができる前で、出社しても仕事と言える仕事もない。できたばかりの販売子会社への5年間の出向を経て、36歳で医薬営業企画部に着任。主任部員、課長、部長と務めたが、この間、伝票形式の統一に始まり、流通網づくり、海外の提携先との契約で何をかち取るかの折衝など、まさにゼロからの出発で、白紙に描いた「国づくり」の骨格を、肉付けしていく日々だった。

そんななか、37歳で書いた課長昇格論文のテーマが「全国自販の実現」だ。名古屋、大阪に拠点を設け、下準備を進める。海外から販売権などを獲得した医薬が売り上げの過半を占めてはいたが、研究陣と連携し、自社開発品を1つずつ、増やしてもいた。だが、それも、首都圏以外では他社への委託販売。「自社で開発した薬は、自社で売る」が、全国自販とともに描くもう1つの夢だった。

「大きな夢を持ち続け、長期で考える」が大八木流。ホンダを創立した本田宗一郎氏も「夢は、持ち続けなければ、実現しない」と説いたが、全く同じ考えだ。

ただ、販売権を買い戻すには、100億円単位の資金が要る。繊維が主流で、医薬の売上高はまだ小さいうえ、バブル崩壊の直後で会社は「基本的に投資はしない」との姿勢。周辺に「取締役は全国自販を了承しないぞ」と言われた。

でも、周到に準備した。常々、部下に「あらゆる質問に答えられるように用意しろ」と指示し、このときも趣旨を数枚と100頁近い資料を携えた。どんな質問にもすらすらと答え、その効果か、提案は認められ、社内は驚いた。