情報の宝庫「夜の銀座」に通う
1990年代にバブルが崩壊するまで、東京・銀座の夜は、様々な人で賑わった。高所得の医師や弁護士、外交官、大企業の創業家の御曹司、文壇を代表する作家、そして政治家の秘書。取り巻きも続く。そんな世界だから、虚実が混ざった「情報の宝庫」だった。
その銀座へ、ひんぱんに足を向けた。くつろぐためではない。大事なお客をもてなすと同時に、会話と情報の渦のなかから、世の中の次の姿をつかむヒントを得るためだ。酒は、ほぼ飲まない。バブルの崩壊は、部長時代の四十代だ。
博覧会のパビリオンや自動車ショーなどの飾り付けから、百貨店の内装、店頭での「POP」と呼ぶ広告や仕掛けまで、ディスプレー業界の国内市場は、いま2兆円に迫る。創業1892年の乃村工藝社は、最大手だ。
乃村には、大学時代からアルバイトに通い、POPづくりに参加した。一方で、様々なアルバイトで貯めた資金で喫茶店を持ち、その収入で初めて銀座のクラブへいったのが二十歳。父は酒類店を営み、酒はすぐそばにふんだんにあったが、家族は商品に手は伸ばさない。入社したとき、職場で「居酒屋にはいかない」と宣言した。アルバイト時代、居酒屋で愚痴をこぼし、人事の話ばかりをしているサラリーマンたちをみて、「ああは、なりたくない」と決めていた。銀座通いも、最初は自腹。でも、仕事ぶりが認められ、2年目から交際費が使えるようになる。
入社して38歳直前で部長になるまで、主に電機メーカーを担当。その2年目だ。販促品で、シボというしわ付きのものをつくるはずが、工場で余分に加熱して平らになって届く。それが1万個。お客に持っていってみせたとき、風邪で40度の熱があった。「何だ、これは」と怒られながら、倒れてしまう。上司が呼ばれ、薬を飲まされ、自宅へ連れて帰ってくれた。
後日、ワインを手に、お客に謝りにいく。相手は「もうしょうがない、これでいい」と言って、そのまま納品できた。自分の職場のように毎日通い、相手の胸の内を聞き出して、銀座などで仕込んだ情報を織り交ぜて提案する。その積み重ねが、若くして認めてもらえた基盤を、築いていたようだ。