商談では、100万円単位の販促品の制作なら、30項目くらいの経費を、何円何銭まで細かく出した見積書をつくる。若いときは、いつも、その計算係。子どものころ、実家の酒屋が筆で書いた漢数字の伝票から売り上げを計算していたためか、父母は子どもたちに習字か算盤を習わせた。自分は算盤塾へいき、小学校6年で珠算1級をとり、暗算が得意だった。

やがて、商談を聞いているうちに、それにはどんな経費がいくらかかり、収益はどうなるか、頭で暗算するようになる。当然、「収益重視」も身についていく。それに気づいた上司に以降、見積もりはすべて任された。お客への日参と「爵禄百金」を惜しまぬ情報収集、それに暗算力がかみ合って、電機メーカーとの取引額は数年で6倍になった。

四十代半ばは交通事故に遭い、アキレス腱を切って3カ月もギプスをはめて出社するなど、嫌なこともあった。でも、これは、誰にでも大なり小なりある波だろう。同じ時期、自分でも「あれは、でかかった」と胸を張れる仕事も、やり遂げた。ある自動車メーカーの国内販売網の刷新に、企業理念や行動指針などを示すコーポレート・アイデンティティー(CI)の展開を受注。全国600店の看板を取り換え、うち480店の内装を新調した。模様替えは91年2月から8カ月半かかり、準備期間も含めて指揮を執る。年間に約70憶円もの売り上げになる大型プロジェクトだから、商談にもときどき同行し、相手の役員や大きな販売店の社長たちへの対応も、引き受けた。もちろん、夜の部もだ。

2007年5月、社長に就任。翌年秋にはリーマンショック、4年目には東日本大震災が起きて、逆風が吹きつけた。でも、次号で触れるが、震災復興やスカイツリーの開業など、前向きな舵取りもできた。そんななか、銀座通いも続く。かつてのような会話や情報はもう望めないが、古き友を訪ねるような気持ち。酒を飲まないからこそ、半世紀も続いている。

乃村工藝社 会長 渡辺 勝(わたなべ・まさる)
1947年、東京都生まれ。70年獨協大学経済学部卒業後、乃村工藝社入社。93年取締役、97年常務、2003年専務、07年社長。15年5月より現職。
 
(書き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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