2年後の96年10月、四十代を終える前に、全国自販が始まった。医薬部門へ異動して以来20年の夢が、結実する。大変だったのは、販売権を買い戻す交渉と自販のための要員の確保だ。売れている医薬はなかなか返してもらえず、実績も規模もある先方のほうが強いから、容易ではない。

しかも、名古屋や大阪で委託販売と並行して自社販売も手がけると、提携先が販促策を会議に乗せず、売上高が落ちていく。では、他の地域はどうするか。販売権を取り戻しても、全国で200人の知識を持つ「MR」と呼ぶ営業担当者が必要だ。帝人に、それだけの要員はいないし、大量に採用してもすぐに育てる力はない。ここをどう回していくか、部長になったころの大きな課題となる。

でも、運がよく、打開策が浮上した。ある販売委託先の大手薬品会社が、たまたま新薬が出ない時期で、販売権を帝人へ返すと、仕事量に比べて人件費の負担が大きくなってしまう。そこで「買い戻し額は少し減らしていいから、営業の人間を300人、採ってほしい」と言ってきた。300人は多すぎるから、交渉でだんだん減らし、87人を受け入れた。

その後、みんな、大活躍してくれた。ゼロから出発した医薬事業は、2016年度に売上高が1475億円と全体の2割に達し、営業利益は276億円で全体の半分近くを稼ぎ出す。

「繪事後素」(繪の事は素より後にす)──絵画では、まず下絵をきちんと描くことが大事で、色彩を施すのはその後のことだ、との意味だ。中国の古典『論語』にある言葉で、下絵描きは表に出ない作業だが、しっかりした下絵がなければ立派な絵にはならない、と説く。ゼロから手がけた医薬事業で、夢を下絵にし、時間をかけて形を整えていった大八木流は、この教えと重なる。ちなみに、「きちんと」と「しっかり」は、大八木流でもよく出る言葉だ。

リーダーに不可欠な要素とは

1947年5月、東京都八王子市に生まれる。両親と兄、姉、妹2人の7人家族。実家は代々、神奈川県津久井で生糸の卸や撚糸を商いとしていた。かつて養蚕が発展した地で、後に移転した八王子と「絹街道」で結ばれていた。父も糸商で、兄も継いだ。だから、子供のころから糸には親しみがある。地元の小・中学校から都立立川高校へ進み、俊敏だったので一時はバスケットボール部にいた。

慶應義塾大学の経済学部では、先輩と社会認識の方法論を学ぶ研究会を設立し、マックス・ウェーバーやマルクスの著作を読み、夏休みは合宿で徹底討論もした。3~4年は経済政策の加藤寛教授のゼミに入り、卒業時には教授が1人ずつ、アルバムに言葉を書いてくれ、自分には「誠意、それが将」とある。真意を測りかねたが、おそらく「もっと誠実に生きろ」との意味だな、と受け止めた。いま、会社の部屋に木彫りの楯があり、この言葉が書いてある。