道理に従えば、答えはみえる

1995年3月、本社の経理課長から東京支社の業務部長になった。営業活動以外のすべての責任者で、関東地方と新潟、長野、山梨の1都9県が守備範囲。工場勤務の経験は岩手県と大分県であったが、営業拠点は初めて。43歳、自分では意外な異動だった。

太平洋セメント 社長 福田修二

前年秋に、自分がいた小野田セメントと秩父セメントが合併し、秩父小野田になった。秩父の会長が「合併では、大きいほうに合わせるのが筋だ」と決断し、コンピューターシステムをはじめ、すべてを規模が大きい小野田のやり方に一本化する。ただ、それには時間がかかるから、多くの部門が、とりあえず二本立てで動いた。