極秘チームは、暗号でホテル入り

小野田セメント(現・太平洋セメント)の経理課長時代、1992年から翌年にかけて、41歳のころだ。連日のように、東京都江東区にあった本社ビルの机を、そっと離れ、1人で近くのホテルへ向かった。フロントで「暗号」を口にすると、会社が極秘に借りた続き部屋の鍵を渡される。部屋へいくと、やはり社長から内々に指名を受けた経営企画部の人間がいた。秩父セメントとの合併を、ひそかに進める「隠れ家」だ。

太平洋セメント 社長 福田修二

92年秋、社長に呼ばれた。とくに急ぎの懸案も思い浮かばぬまま社長室へいくと、合併構想を打ち明けられ、極秘チーム入りを命じられる。経理畑だから、主に合併比率の案をつくる作業に就いた。

国内セメント業界は過当競争のなか、85年秋の「プラザ合意」以降の円高で国際競争力が低下。構造改革のため、5グループをつくって共同販売や設備廃棄を進めたが、それでも経営環境は厳しく、合併は打開の切り札だった。

合併の交渉は、ガラス細工のような脆さを、内包する。新社名をどうするか、どちらが社長を出すか、本社をどこにするか。面子や思惑がぶつかる問題を、双方の経営陣や社員が了解できるように決めなくては、破談しかねない。

合併比率は、さらに難しい。両社の株式を新会社の株式に交換する際の比率で、企業価値をもとに決める。軸となるのは株価。妥当な比率にしないと、株主総会で否決されかねない。社長の指示は「きみなりに結論を出せ」だった。

経理課近くの財務課に、株価の値動きを伝える端末機があった。まだ携帯電話で株価をチェックできないころで、そこで連日の終値を書き写す。自社のほかに秩父セメントだけをみると怪しまれるので、同業他社の終値を全部とり出す。いろいろなデータを揃えるのに、関係書類のコピーもたくさんとった。早朝に出社し、誰もこない間に急ぐ。ただ、なぜか、そういうときに限り、紙が詰まる。切れ端でも残すといけないので、手を真っ黒にして、取り出した。

大変だったが、1人で何もかもやったので、すごく勉強になる。株価は秩父のほうが高く、計算すると合併比率が1対2以上になるが、2倍をどこまで超すか、コンマ以下が微妙。合併を軌道に乗せるには、わずかの違いも重大だ。

比率には、純資産などの財務内容やブランド力、競争力なども考慮されるから、朝早くコピーした資料を読み込んだ。両社の経営要素が持つ意味はもちろん、業界全体のことや経済の先行きまで、考えるべきことは幅広い。ただ、経理畑で長く予算を管理し、決算をまとめる仕事を重ねて、物事を大きくとらえて観る習慣が、身に付いていた。その基本を、貫く。

結論を出し、社長に「私はこう思います」と報告すると、比率はそれに近い数字で決まった。社長に「お前はこう言ったが、調整した結果、こうするけど、いいな」と言われ、頷く。最後は譲り合う経営判断になるから、調整は当然だ。でも、物事を大きく観たことが反映されて、うれしかった。