93年11月、合併が発表され、翌年10月に秩父小野田が誕生した。新会社では経理部副部長となる。部長と実務を担う課長の間で、両社の面々の融和役だった。

「賢者識其大者、不賢者識其小者」(賢者は其の大なる者を識り、不賢者は其の小なる者を識る)――賢い人は、いつも問題の大きなところに着眼して大きなことを知り、賢くない人は、常に大きなところには気づかず小さなことだけを知るとの意味で、『論語』にある言葉だ。識見の大きさを求め、合併比率の決定で大局的なところに着眼し、静かに着地させた福田流は、この教えに重なる。

12年がかりで、税理士試験通る

1951年12月、山梨県白根町(現・南アルプス市)に生まれる。両親と弟2人の5人家族。父の考えで兄弟全員の名前に「二」の字が付いた。父は町の商工会議所に勤めながら俳句に親しみ、山梨出身の飯田蛇笏・龍太父子が主宰した俳誌『雲母』の同人で、権威のある蛇笏賞を受賞した。

隣町の県立巨摩高校へ進み、就職に備えて初級公務員の試験を受けて、合格する。だが、父に「現役で国立の大学に受かるなら、いってもいいぞ」と言われて福島大学を受験。経済学部経済学科に入ると、グリークラブの2年後輩の女性が伴侶となった。

74年4月に入社し、岩手県の大船渡工場の会計係へ配属。出納業務や原価計算、固定資産の管理などを担当した。簿記の達人だった係長が「少しは勉強しろ」と言うので始めたら、パズルみたいに感じて「面白い」と思う。3年目に仙台へいって、税理士試験を受けた。「何か他人に負けないものを持ちたい」と考え、はまっていた会計・税務に挑んだ。

試験は簿記論と財務諸表論が必須科目で、税務では法人税か所得税のどちらかが必須。ほかに相続税や住民税、固定資産税などから2つ選び、5科目が60点以上なら合格だ。いきなり受けたのに、簿記と財務諸表が通った。試験は同時に5科目が受かる必要はなく、1度受かった科目はもう受けなくていい。あと3科目。「意外と楽だな」と思ったが、甘かった。

大船渡には簿記学校がなく、本を買って独学したがダメ。4年目の夏に東京の総務部総務課へ異動した後、鉱業権の管理などをしながら日曜日に簿記学校へ通う。さらに情報システム室、経理課へと転じても、学校通いが続く。この間に法人税と固定資産税の試験は通ったが、最後の5科目目に受かって合格したのは、大分県の津久見工場の総務課にいた89年。最初の挑戦から、12年が過ぎていた。