米国での極秘交渉 暗号は「ホリデー」
1982年秋、富士銀行(現・みずほ銀行)の国際企画部から、同僚たちに何も告げず、姿を消す。極秘にニューヨークへ飛び、後輩と2人で、シカゴに本拠地を置く金融会社のW・E・ヘラーを買収する交渉を進めるためだった。同僚たちは「橋本は、どうしたのだ」と、ざわついた。妙な噂が流れ出さないように、「長期のホリデーに行っている」ということにしてもらう。
「ホリデー」――これが、そのまま買収作戦の暗号となる。若いころから、洒落が好きだった。これも、その一つだったのかもしれない。
半年近く前、国際企画部の副部長兼オセアニア室長兼米州室長から、ただの副部長になっていた。二度にわたる石油危機で膨張したオイルマネーを取り込み、中南米に貸し込むことが続いていた国際業務を、中南米諸国の経済危機の高まりで見直すことになり、米国への本格的な進出を検討する特命が下りていた。
議論を重ね、米国のコンサルタントが示した4つの選択肢から、米国の中堅企業相手の多様なサービスを扱い、不動産関連の投資など業務が自由に展開できる金融会社を買収する案を選ぶ。まだ、州をまたいでの銀行業務に制限があった時代で、全米を一気にカバーできる道だった。
金融会社の物色を進めていると、ヘラーの売却話が飛び込んできた。ヘラーは上場していて株価は高いが、経営戦略があいまいなので、低めの買収価格を提示したら、株主側が怒った。そのまま太平洋を挟んでの交渉を続けても、うまくいかない。後輩と2人で、ニューヨークの目立たぬホテルに泊まり込む。「ホリデー」の意味は、ニューヨークでも、支店長くらいにしか伝えていない。隠れるようにすごす日々は、47歳になっていた身には厳しかった。
翌春、売り方と原則的な合意ができた。4月には、契約書に調印する。だが、それまでも、それからも、本社とヘラー側との板挟みになることが多く、苦しい日々が続く。米国と日本を何度も往復せざるを得ず、疲れはて、ときに無力感や絶望感にまで陥る。ある日曜日、マンハッタンを歩いていて、ふと、教会に立ち寄ってみた。
子どものころから教会に親しみ、高校卒業とともに洗礼を受けていたが、銀行に入って26年、いつの間にか教会から遠ざかっていた。久しぶりに静かな時間に身を置くと、やがて、神の声が聞こえた。それは、心が空っぽになったときにだけ聞こえ、いろいろ思い悩んでいるときには訪れない。聖書の随所に出てくる「思い悩むな」の教えが、蘇る。心が平安になり、新たな力が湧いてくる気がした。その日から、無心で、買収のとりまとめへ力を傾ける。
「安時而処順、哀楽不能入也」(時に安んじて順に処れば、哀楽入る能わず)――時の巡り合わせを平安に迎え入れ、自然の流れに従っていれば、悲しみも楽しみもないとの意味で、中国の古典『荘子』にある言葉だ。この世のすべてには善も悪もないとして、そんな一時的な是非には惑わされず、大きな観点に立って生きることを説いている。マンハッタンの教会で再来した「無心」の境地から始まった橋本流は、信仰こそ違え、この教えに重なる。
新社長の選考でも、同様だった。東京の面々は「子会社のトップは、親会社の常務以下の権限でいい」としていたが、それでは、応募者が納得しない。ヘラーの客は米国の中堅企業。日本人に、そんな世界の機微が、わかるはずはない。やはり、そうとうの権限を与えるべきだ。どちらが是か非ではなく、当然の理を唱えると、新経営陣に「自治権」が与えられた。
もちろん、何でも自由にやらせたわけではない。84年1月、自らヘラーの副社長となり、内部から問題点をチェックする。富士銀行の専務もヘラーの非常勤取締役に就任し、ニューヨークに常駐して監督した。そうしたコーポレートガバナンスの強化が功を奏し、その後の巨額な不動産関連の不良債権処理を乗り切って、みずほは2001年にヘラーを売却し、大きな利益を手にする。
交渉開始からヘラー出向が終わるまでの3年間、学んだことは多い。富士銀行の頭取になったときも、いま日本政策投資銀行(政投銀)の社長になっても、それを思い起こす。