巨額の発注ミス顔色変えず対応
1995年、「失われた10年」のただ中で、日経平均は一進一退を繰り返す。年初と年末こそ1万9000円を超えたが、6月には1万4000円台に落ち込んだ。そんな冴えない相場のなかで、1万7000円台を回復した日の午後だった。
株価の先物やオプションの取引を受け持つチームを率いていた。小さなディーリングルームで、隣の席にいた部下が真っ青になって言った。
「大変です。機械の具合が悪く、大量の売り注文が出てしまいました」
聞けば、簡易端末機を使って、大阪証券取引所の日経先物で小規模の売り注文を出した。ところが、なかなか注文が出ていかないので、ボタンを何度もカチャカチャ押していたら、突然、100倍を超える売り注文が出てしまった、という。画面をみると、どこの証券会社のディーラーも「発注ミス」と見抜いたのか、こちらが高値になっても買い戻さざるを得ないとみて、買い浴びせている。
午後3時、先物市場は閉じる間際で、部下はパニック状態だ。だが、こういうときは、慌てて動いたら、市場の餌食にされる。ロンドンの国際金融センター「シチー」で、約5年、もまれた経験があるから、よくわかる。部下には「落ち着け」と言い渡し、少しずつ買い戻すことにした。すると、まだボタンを押した分が残っていたのだろう。再び、大量の売り注文が出てしまう。
今度は、買い注文を浴びせていたほうが慌てた。日経平均が回復したために、相場に天井感が出ていた。
「ひょっとすると、これは発注ミスではなくて、相場が下がるとみた確信的な売りではないか」。かなりの市場関係者がそう受け取ったのだろう。一変して、売り一色となる。
買い戻しは順調に進み、発注ミスの約6割まで相殺できた。残りは翌日回し。すぐ近くにいる株式部の面々は、常に、買い持ち分がある。聞けば、先物の売り残をヘッジできるくらい持っていた。担当役員には、そのことも合わせて報告し、了解してもらう。その晩、ニューヨークの株価が下がり、翌日の先物価格も下がり、買い戻しを終えた。
結局、差し引きで700万円のプラスだった。でも、正直言って、肝を冷やした。注文ミスは300億円近くに達し、それだけで部内の限度枠を超えていた。事情を知られたら市場で締め上げられ、巨額の損失が出た。騒ぎになれば、会社の評判を落とす。そういうことが、頭の中を駆けめぐる。でも、なぜか「じたばたしても仕方ない」と冷静だった。株式や債券などの売買を担うエクイティ本部の運用開発部の次長のときで、満40歳を迎える年だった。
「将軍之事、静以幽」(軍に将たるの事は、静にして以て幽なり)――一軍を率いるときは、慌てて動かずじっとして、奥深く考えを巡らせることだ、といった意味だ。中国の兵法書『孫子』にある言葉で、何があっても動揺を表情や言動に表さず、冷静沈着であってこそ、部下たちの信頼を得て勝機をつかめると説く。300億円近い部下の発注ミスにも顔色を変えず、最適な対応をみせた日比野流は、この教えに重なる。
運用開発部は、実は自分の発案で生まれた。社長室にいた80年代末に、現物株の売買に偏ったリスクなどを減らすために考えた。先物やオプションの売買でリスクをコントロールしながら、リスクを考慮した後の収益を最大化する。基本的なことだが、当時はあまり理解されない。信用取引の空売りとは別の違う先物取引の仕組みも、よく浸透しない。
でも、株価は89年末を天井にほぼ下がる一方で、値上がり益は期待できないし、売買量は細る。では、収益源をどこに求めるか。それを真剣に考えれば、答えは明白だ。秘書室に移っていた91年、運用開発部の新設が決まり、翌年に参加した。
1955年9月、岐阜県羽島郡柳津町(現・岐阜市)に生まれる。父は鉄工所を経営、姉と兄が一人ずつの末っ子で、自由な雰囲気の下で育つ。県立岐阜高校から東大法学部へ進む。79年4月に入社、債券部に配属された。顧客相手のトレーディング部門に入り、東京の金融機関や機関投資家を担当する。人手が足りないから、新人でも巨額の売買を手がけ、1年で慣れた。金利の変動や外国為替の動き、マクロ経済の動向など、基礎的な知識も身につける。