野球中継で通す「定型外」の発想

<strong>テレビ朝日社長 早河 洋</strong> はやかわ・ひろし●1944年、山梨県生まれ。67年中央大学法学部卒業、テレビ朝日入社。85年チーフプロデューサーとして『ニュースステーション』を立ち上げる。96年編成局長、97年報道局長、99年取締役、2001年常務、05年専務、07年副社長。09年より現職。
テレビ朝日社長 早河 洋 はやかわ・ひろし●1944年、山梨県生まれ。67年中央大学法学部卒業、テレビ朝日入社。85年チーフプロデューサーとして『ニュースステーション』を立ち上げる。96年編成局長、97年報道局長、99年取締役、2001年常務、05年専務、07年副社長。09年より現職。

1988年暮れ、若いディレクターに「ニュースステーションの年末特集で、『10.19』のロッテ-近鉄戦をやってみないか」と切り出す。この年は、鈴木大地が100メートル背泳ぎで金メダルを獲ったソウル五輪、青函トンネルの開業など、振り返るにはふさわしいニュースが続いた。政官財を揺るがせたリクルート事件も、まさに進行中。さらに、秋からは昭和天皇の容体悪化もある。

でも、番組づくりのすべてを握るプロデューサーとして、1年の締めくくりの素材に、パ・リーグの優勝を争った10月19日のダブルヘッダーを選ぶ。44歳のときだ。『10.19』の日、近鉄が首位の西武を抜いて逆転優勝するには、2試合とも勝たねばならない。放送権はテレビ朝日系が持ち、近鉄の地元・大阪の朝日放送は第1試合から中継した。テレ朝の本拠・関東では、中継の予定はない。第1試合で近鉄が勝ち、決着は第2試合に持ち込まれた。テレ朝も第2試合の様子は、通常番組の中で随時差し込んで伝えた。すると、時間を追って「もっとみたい」という電話が殺到する。

編成局の判断で午後9時から番組を差し替え、放送を始めた。CMを入れない異例の措置で、編成局内の騒ぎが『ニュースステーション』のスタジオにも伝わってくる。熱戦は10時が近づいても、終わる気配はない。決断した。『ニュースステーション』の冒頭、久米宏さんが「今日は、お伝えしなければならないニュースが山ほどあるのですが、野球中継を続けます」と断り、用意した内容をいくつか飛ばす。ところが、試合は延長戦にまでもつれ込む。

リクルート事件で東京地検特捜部が踏み切った家宅捜索について7、8分の放送を予定し、「ブラックマンデー満1年」でウォール街から約15分の特集を流すことにもなっていた。これらも取り換え、10時56分の試合終了まで中継した。

正解だった。視聴率は、近畿地区で歴代最高の46.7%、関東地区でも30.9%という驚異的な数字を記録した。「何で、あんなに多くの人々が、あの試合をみたのか。みんな、いったい何を感じたのか。それだけでも、大変なテーマだぞ」。年末特集を命じた若いディレクターに、そう言った。

新聞でもテレビでも、定型の報道というのがある。それはわかった。では、それ以外に何かないのか。自分には、そう考える癖がある。『10.19』は、そんな切り口や発想を膨らませてくれる素材だった。

84年秋、ある先輩プロデューサーに「企画書を書いてみてくれ」と頼まれた。プライムタイムと呼び、視聴率争いの主戦場である夜10時台に、毎晩、ニュースを核にした帯番組を放送する企画だ。ただ、社内の抵抗感が強い。夜10時台は、ドラマでも10%以上の視聴率が獲れる。でも、翌年に企画書を出すと、社長が臨時局長会議を招集し、「今秋、月曜から金曜を通じ、22時から90分規模の報道番組を放送する」と言明した。一つの番組のために局長会議が開かれるなど、聞いたことがない。そのときの企画書が、社内に「古典」のように残っている。

85年10月7日、放送が始まった。ところが、自分が考えていたものと、全く違うものができ上がっていた。ニュース現場を重視し、「テーマが山なら、中継で上ってみろ」というイメージを抱いていたが、久米さんのプロダクションとの混成部隊は、バラバラの番組像を持っていた。頭で考えた特集を優先し、その日にあった「生の素材」をおろそかにしてしまう。混乱が続いた。それが、8~10%程度という期待はずれの視聴率に表れた。

試行錯誤が続く部隊に、一切合財を考え直させ、「この番組の核は、ニュースなのだ」と思い知らせたのが、86年2月に起きたフィリピン革命。マルコス大統領が亡命し、アキノ政権が誕生する動きを追い、視聴率は20%を越えた。臨場感と普通の人の視線。「生の素材」を生かす手法ができあがっていく。