「ベルリンの壁」で仕掛けた夢の対談
番組像を共有しつつ、各自が持つ資質を引き出したい。放送が終わって後始末が済むと、日付が替わる。連夜、それから会社の近くへ繰り出す。そこで、番組づくり論が続く。若いころは、歌と言えば『武田節』が出た。「ずいぶん年寄りじみた歌だな」と冷やかされもしたが、「人は石垣、人は城、情けは味方、仇は敵」という歌詞が好きだ。
「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山」(其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し)――説明は不要だろう。『孫子』にあり、攻守を通じた作戦行動のあり方を説く。早河流の番組づくりは、この教えに重なる。『武田節』が描く戦国武将・武田信玄は、この言葉から「風林火山」の四文字をとり、旗印にした。その信玄と同じ甲斐の人間だ。DNAが、似ているのかもしれない。
1944年1月1日、山梨県笛吹市一宮町で生まれた。実家は桃園やブドウ園を経営する傍ら、染め物屋やクリーニング屋も経営していた。県立日川高校から中央大学法学部へ進み、放送研究会に入る。67年4月、日本教育テレビ(テレビ朝日の前身)に入社。2年目に報道局報道部へ配属され、警視庁や外務省の取材を担当する。約8年、内外のニュースと向き合った。
80年10月、国際報道番組「いま世界は」のディレクターに昇格。文壇で思想的に対立していた石原慎太郎氏と大江健三郎氏を、ベルリンの壁まで引っ張り出し、対談してもらうことに成功する。まず年長の石原氏に頼むと、「大江がいいと言うなら、いいよ」と応じてくれた。大江氏に会うと、「石原さんがOKしているなら、文壇の先輩でもあり、行きます」と了承してくれた。「其疾如風」ではないが、あっという間に話がまとまった。テレビ界では考えられない着想で、「其徐如林」のように口にはしないが、代表作だとの自負がある。
週1回の番組のほかに、スペシャルもつくった。その一つが、81年の「英雄たちのカルテ」。第二次大戦や戦後のリーダーたちの多くが、重大な病気を抱えながら、厳しい仕事に臨んでいた、という話だ。編成局がフランスのドキュメンタリー番組を買ったが、扱いに困り、「何とかしてくれ」と頼まれた。換骨奪胎してもいいとの約束で、一気につくり直す。やると決めたら、勢いをつけて走る。どこかに「侵掠如火」というところもあるらしい。
「ザ・権力」もつくった。ちょうど米国の大統領選と日本の総裁選が同じ時期に重なったときだ。これは、自分らしい手順で進めた。番組のコンセプトを固め、必要なヒト・モノ・カネを集め、社内をその方向へ持っていく。ワイドショーのように猟犬のごとく飛び出し、何かをくわえてくる手法ではなく、足元が固まるまで動かない。「不動如山」は、テレビ界では少数派かもしれない。
2009年6月、社長就任。直前に赤字へ転落していた。聖域なき経費削減を進め、組織をスリム化、コンテンツビジネス部門を新設する。電波の使い方が大きく変わり、専門チャンネルが増え、携帯電話やパソコンでテレビを含めた映像をきれいにみることができる時代だ。でも、環境は変わっても、ニュースの持つ「生の素材」を生かし、視聴者に満足してもらうことは、いくらでもやりようがある。
現場にいた時代のようには、若い連中とワイワイガヤガヤできる機会はない。でも、トイレで並んだときなどに「おい、あの番組のあそこだが、もっとああしたほうがいいのではないか」と語りかける。石垣が緩んでは、城はもたない。DNAは、引き継いでいきたい。