「特命チーム」が直面した崖っ縁
1997年12月10日。本社の一室で、特命チーム「経営企画スタッフ」のメンバーに、A4判の紙を1枚ずつ渡す。ワープロで打った題は「当面のテーマ」。新しい仕事に立ち向かうときは、そのように課題を整理し、部下たちに浸透させる。
大和証券は3カ月前、都市銀行や大手証券、電機メーカーなどを巻き込んだ総会屋利益供与事件への関与が表面化し、経営陣が一新された。一方で、未曽有の金融危機により、銀行、証券の経営破綻が始まっていた。前号で紹介したように、全社の株式取引のチーフトレーダーである株式課長を務めていたが、「2つの大危機」に急きょ、社長直属の特命チームを率いることになる。
社会的な信頼回復への道筋と危機を乗り越える経営戦略の策定。部下に配った紙には、新体制下の経営課題を14項目、簡潔に列記した。3つ目に「格付け機関ミーティング対応準備」とある。古い証券マンには「格付けなど、格付け機関が勝手にランクを付けているだけだ。そんなもの、無視すればいい」という具合に、格付けを「無用」とする風潮があった。だが、そうはいかない。
社債発行などによる資金繰り、とくに海外での外貨調達に、格付けは大きな影響力を持つ。山一証券は米国の2機関に相次いで格下げされ、廃業に追い込まれた。金融危機後、大和証券も「BBBマイナス」と格付けされ、「投機的」とされる水準の寸前にまで落ちていた。
格付けでは、業績や財務内容だけでなく、企業の将来性も考慮する。金融危機の嵐の中で上位の格を得るには、思い切った経営戦略が必要だった。翌98年3月、大和証券では例のない中期経営計画を発表した。だが、米ムーディーズは「BBBマイナス」の維持に加え、さらに引き下げる可能性がある「ネガティブウオッチ」とまで判定した。
崖っ縁に立たされた感がした。これまでの社会人人生で5つの「サプライズ」を経験し、前号でその1つ目、2つ目、3つ目に触れた。このときの判定も全く予想していなかった厳しさで、42歳で遭遇した3つ目の「サプライズ」だった。7月には三井住友銀行と提携し、投資銀行業務を切り離して両社で新会社を設立することも決めたが、「ネガティブウオッチ」は変わらない。
急きょ、ニューヨークへ飛ぶ。1度目は新社長も一緒で、投資家らへの説明会で経営戦略の収益性を訴えた。2度目は、役員を連れてムーディーズの本拠へ乗り込んだ。著名な米投資家のウィルバー・ロス氏の助言も得て、グループ企業の不良債権処理などについて詳しく説明する。でも、埒があかない。じりじりとした気分のまま、夏が過ぎる。10月に中間決算を発表したとき、ようやく「ネガティブウオッチ」がはずれて「安定的」の判定に改善した。
特命チームは、自分を含めて専任は4人だけ。ほかに、兼務が5人いた。辞令こそ正規に出ていたが、社内にも、ほとんど存在が知らされていない。仕事場も、目立たぬ一角にある小部屋だった。週末も出勤し、深夜までそこに籠もる。外出する時間も惜しくて、よく、ピザの出前を頼んだ。後になって、チームに「ピザ嫌い」がいたと聞いて、「悪かったな」と謝る。危機を克服した戦友同士、いまや笑い話だ。
もう1つ、力を尽くしたのが信頼回復策だ。営業体制の見直しも必要だったが、新社長から強く指示されたのは、グループ全体で追求すべき指針の策定。国内外の著名企業などの事例を集め、自社が持つ固有の条件を加味して、「企業理念」「経営の基本姿勢」「倫理・行動規範の基本方針」などを練り上げた。
企業理念で掲げたのは「信頼の構築」「人材の重視」「社会正義の貫徹」「健全な利益の確保」の4つ。その内容を示す言葉一つ一つに、こだわった。山一も三洋証券も、社会からの信頼を失い、姿を消した。一度失った信用の回復は、容易ではない。よく、覚えている。赤鉛筆を手に部下の原案に朱を入れて、並べる順番も熟慮した。最後は、すべて、自分で書き上げた。いま、時代の変化に即して一部が書き直されたが、その精神は、脈々として続く。