出店中止の決断「バブル」を予期
1993年3月、ニトリは茨城県勝田市(現・ひたちなか市)に、本州1号店を開店した。札幌市北区に1号店を開いてから25年余り。北海道内で毎年1カ所のペースで店の数を積み重ね、21カ所に網を広げたうえで、津軽海峡を渡る。49歳の誕生日を迎える春だった。
その3年ほど前にも、進出計画はあった。千葉県・流山など3カ所で値ごろな借地をみつけ、契約を結んだ。だが、世の中、バブル膨張の真っ最中。基礎工事が始まったころ、もう一度、見積もりし直すと、どうも採算に合わない。バブルで、地代も建築費も人件費も急騰していた。
「安さ」が売り物の店は、とても成り立ちそうにない。
3カ所の手付金は払い済み。迷いに迷ったが、出店中止を決断する。設計費などを含め、当時の年間経常利益に相当する1億数千万円が無に帰した。でも、賢明な判断だった、と思う。強引に突き進んでいたら、おそらく今日はない。「一足飛び」を図ることこそ、最も危うい。年月をかけて「一歩一歩」というのが、やはり、自分に合っている。
勝田店のオープンから7カ月後、千葉県に本州2号店を開く。さらに群馬、栃木、神奈川へと出てから、98年3月、東京に南町田店をつくる。小売業の激戦地である東京や神奈川への出店など、怖くて、とてもできなかった。嘘ではない。でも、一歩一歩前へ進むうちに、恐怖感は薄れていく。それまでの本州店は、売上高が年間6億円から8億円だったが、南町田では初年度から20億円も売れ、高収益を達成する。歩みは北陸、関西へと続き、99年、店舗網は九州と四国へまで広がる。
「驥1日而千里、駑馬十駕、則亦及之矣」(驥(き)は1日にして千里なるも、駑(ど)馬(ば)も十(じゅう)駕がすれば、則(すなわ)ちまたこれに及ぶ)――足の速い駿馬は、1日に千里も走ることができる。でも、歩みの遅い馬でも怠らずに10日も進めば、やはり千里の道に到達する、との意味だ。中国の古典『荀子』にある言葉で、天才のごとく「一足飛び」を狙うことを戒め、一歩一歩努力を重ねていけば、大事も成し遂げることができる、と説く。先を急ぎすぎず、着実に前へと進んでいく似鳥流は、この教えと重なる。
1944年3月、父が営農をしていた樺太で生まれる。3歳のときに母の出身地の札幌に帰国した。妹2人と弟1人の長男。父は、しばらく日雇い仕事を続け、母はコメの配達で家計を支える。配達は、夏はリヤカー、冬はソリで、後ろで押すのが小さいころの役目。高校時代は父が営むようになったコンクリート会社を手伝い、自分で学費を賄う約束で進んだ北海学園大学時代も、学生を集め、建設現場で差配した。
卒業時は不況期に遭遇し、就職口がなく、父の会社に入る。後を継ぐように言われたが、肉体労働ばかりで嫌だった。盲腸で入退院したのを機に、電車やバスの車内広告を扱う代理店に就職した。だが、やってみると、性に合わない。世間話が苦手で、注文がとれず、ノルマを達成できない。5カ月で、解雇された。
再就職先を探しているとき、父に以前、「お前のような人間にも、生きていく方法が2つある。人の3倍働くか、人がやらないことをやるかだ」と言われたことを思い出す。人の3倍も働くのは無理なので、「人がやらないこと」を考えた。何か商売を始めることにして、住んでいる地域にはなかった家具屋を選ぶ。
67年暮れ、札幌市北区に30坪の店を借り、「似鳥家具卸センター北支店」を開く。資金は、親戚から100万円借りた。「卸」と付けたのは、値段が安いと思って客がきてくれる、と考えた。「センター」は大きな店のような安心感を与えるため、「北支店」はほかにも店がある大きな会社だと思わせる狙いだ。あまり先のことまでは考えず、「これで、一生過ごせればいい」というくらいの気持ちだった。
4年目に、2号店を出す。自動車普及の本格化を見越し、市内の国道沿いに250坪の土地を借りた。当時は札幌一の大型店。出だしは好調だったが、1年後、近くに1300坪もの大型家具店ができた。売り上げは急減し、借金が膨らみ、倒産の危機に陥る。落ち込んでいたら、知り合いから誘われた、米国のロサンゼルスへ、家具業界を視察に行く研修だ。ワラをもつかむ気持ちで参加する。72年、生まれて初めて海外へ出た。サンフランシスコとロサンゼルスを回り、百貨店「シアーズ」の家具売り場や家具チェーンストア「レビッツ」などを巡る。そこで、いくつも「驚き」に出会う。