体育館で実験「顧客志向」の科学

伊藤雅俊 いとう・まさとし●1947年、東京都生まれ。71年慶應義塾大学経済学部卒、味の素入社。九五年食品部長、99年取締役、2003年味の素冷凍食品社長、05年味の素専務、08年食品カンパニープレジデント。09年より現職。

都内の体育館を借りて間仕切りをして、幾つかブースをつくり、模擬実験を始めた。集まった消費者に、最初のブースで、スープの新製品の広告をみせる。次のブースには、店の売り場のような棚を並べ、たくさんの品を置いておく。自社の商品だけではなく、他社のものも用意し、いま広告でみせたばかりのポタージュのルーの新製品を入れておく。

広告をみた後、購入チップを受け取った人たちが、どれだけ模擬売り場でその新製品に手を伸ばすか。どんな人が、手にするか。そうしたデータを取る。「広告インパクトと店頭陳列の巧拙が、どのように消費者の購買行動に結びついているか?」と名付けた調査で、一人で考案、設計、手配した。食品部の開発グループで、スープ類の担当課長になった1985年。詳しいデータを、販売計画に活かす狙いだった。

実験に、3000万円かかった。経営会議で「そんなにカネを使ってどうなのか」との疑問も出たが、上司が説得してくれた。40代がみえてきたバリバリの年代、そんな声など気にもせず、数日間、続ける。

それまで、商品開発をするときには市場調査をしていたが、味の調査で「おいしい」と言った人が「買いたい」と答えても、実際に買うかどうかはみえない。お客は、いろいろな要素から購入の判断をしているのに、データが断片的で、調査結果と現実がなかなか合わない。広告を打っても、反応が計量的につかみにくい。マーケティングに、科学的な手法が広がってきた時代。「もっと一貫性があり、論理的に答えが出るいい仕組みはないか」と思い、模擬実験を考え出す。米国の先進的な企業などでも、同様のことをしていた。

結果はと言えば、実は、いいデータは取れなかった。新商品が力不足だったのだ。でも、食品部内に「消費者第一」の志向を強めることができた。お客は、何を優先して商品を選ぶのか。お客は、どういう商品を求めているのか。主語を「会社は」ではなく、「お客は」に替えて考える。3年後、消費者第一のアプローチと小泉今日子さんの広告が功を奏し、スープブームが起きる。

消費者第一では、「ダマ」でも苦労した。小麦粉を水などで溶いたとき、よく溶けずにできる粒状のかたまりのことだ。とくに、73年10月に発売したカップスープで、なかなか解消できなかった。日本人の口に合うスイートコーンを使った「コーンクリーム」のカップスープは、お湯を入れればすぐできる便利さが受けたが、3年ほどで伸び悩む。

スープで合弁事業を組んでいた米国のコーンプロダクツ社(CPC)側が、「もうカップスープは、やめよう」と言い出した。欧米では、スープは料理メニューの一角を占め、夕食に飲むのが普通。CPCの担当者の言い分は、うまく溶けない、利益率も低い、そもそもカップスープの市場などはない、ということだ。

でも、売れ行きが伸びないのは、本当に市場がないためか、製品がまだ中途半端だからか。見解が分かれて大議論をしている最中に、大阪から転勤してきた。末席で議論を聞いていて、思わず合弁相手に言った。

「これは、誰に売るのか。日本人ではないですか。日本人に売るなら、あなたがたに負けない」。市場はある、製品開発が不十分で徹底していないからだ、と確信していた。

人間、1日に食べる量はほぼ一定だから、食品市場で売り上げを伸ばすには、既存品からの置き換わりが必要だ。袋入りスープは鍋を使って牛乳で煮るから、多くが夕食時に使われる。朝は、煮ている時間に乏しい。ならば、カップスープを飲んでほしい。では、どの食品からの置き換わりを狙うか。日本人には朝、味噌汁やコーヒーを飲む習慣がある。そこに食い込めばいい。それが、米国人にはわからない。朝、スープを飲む国民は、日本人くらい。出かける支度をしながら立って飲む。そんな姿は、欧米人には想像できない。

結局、「販売促進費を使わないから、続けさせてほしい」と押し切った。溶けやすくする改良を急ぎ、広告費がないから店頭でのPRに力を入れる。翌年、売り上げが回復し、「カップスープ」が生き延びる。