仕入れに全国行脚問屋の猛反発うけ

<strong>ニトリホールディングス 社長 似鳥 昭雄</strong> にとり・あきお●1944年、樺太(サハリン)生まれ。66年北海学園大学経済学部卒業。広告会社社員を経て、67年「似鳥家具店」を創業。85年社名を「ニトリ」に変更。2002年東証一部に上場。04年中国に物流センターを開設。07年台湾・高雄に海外1号店を開設。10年持株会社体制へ移行し、ニトリホールディングスに社名変更。同社は11年2月期まで24期連続で増収増益を記録している。
ニトリホールディングス 社長 似鳥 昭雄 にとり・あきお●1944年、樺太(サハリン)生まれ。66年北海学園大学経済学部卒業。広告会社社員を経て、67年「似鳥家具店」を創業。85年社名を「ニトリ」に変更。2002年東証一部に上場。04年中国に物流センターを開設。07年台湾・高雄に海外1号店を開設。10年持株会社体制へ移行し、ニトリホールディングスに社名変更。同社は11年2月期まで24期連続で増収増益を記録している。

1984年、台湾へ行って、販売用の家具を買い付けた。40歳を迎えた年で、北海道内の店舗網が15店に増え、国内で仕入れるだけでは商品が不足気味になっていた。

徒手空拳、23歳で札幌市に1号店を開いて以来、仕入れには苦難が続く。当初、どの問屋も「大学出立ての若造」との取引に、二の足を踏んだ。4軒目の問屋で、ようやく人の好い主人と出会い、何とか船出する。でも、3年半後に出した2号店のときは、難破しかかった。

2号店は、自動車普及の本格化を見越し、札幌市北を走る国道沿いに250坪の土地を借りた。駐車場を用意して、札幌一大きな店となる。客足を定着させようと、価格を安くする道を考えた。答えは簡単、問屋経由で仕入れず、家具をつくるメーカーから直に買い入れればいい。

だが、考えが浅かった。旭川や小樽などの木工団地を回って交渉したが、どこも問屋と太いパイプでつながっている。再三、足を運んでも、「問屋を裏切れない」と断られた。諦め切れず、考え抜いて、4度目に現金を持っていってみる。通常は、数カ月後に代金が入る手形取引の世界。そこで「現金で」と言ってみたら、何と、応じてくれた。問屋経由より2割も安く手に入り、安い値付けが可能となる。

でも、世の中、甘くない。味を占め、現金を手に道内のメーカーを回ったが、すぐに立ち往生した。行く先々に、「似鳥には絶対売るな」という問屋からの「お触れ」が回ってきた。東北から新潟へ向かったが、「お触れ」は追ってくる。諦めず、全国各地で開かれる家具展示会に目をつけて、次々に訪ねていたら、福岡県の特産地・大川へたどり着く。

40代前半は、1年の半分は海外にいた。台湾だけでなく、東南アジアへも出向く。相変わらず国内メーカーからの直接仕入れが難航していたうえ、85年秋の「プラザ合意」を契機に円高が急進し、買い付けコストが大幅に下がった。どこの仕入れ値も、国内品の3分の1から5分の1。輸送費を計算しても、安値で販売しても、儲かるはずだった。

ところが、売り出してみると、客からクレームが続く。そう使っていないのに、割れ目が入った。原因はわからない。仕方なく、返品されたものも在庫品も焼却した。社内は、海外買い付けに反対一色となる。何しろ、クレームへの対応が大変だ。だから、みんなの意見は聞いた。でも、やめない。「生き抜くには、これしかない」と確信していた。

すると、海外へ出るときに、社員が一人、付いてくるようになる。訪ねた家具屋で「これ、下さい」と言った突端に、「いや、社長、ちょっと」と割って入る。「止め役」だ。社内の総意を、必死で代表していたのだろう、表情がこわばっていた。それでも、考えは変えない。

「成大功者、不謀於衆」(大功を成す者は、衆に謀(はか)らず)――大事業を達成する人間は、自分一人で決断を下すとの意味で、中国・戦国時代に合従連衡を進めた策士たちの逸話を集めた『戦国策』にある言葉だ。大きな成果を収めるには、たとえ他人の意見を聞くとしても、最後は自分の信念に従え、と説く。似鳥流は、この教えと重なる。

その後、台湾などでは原木を乾燥室に入れて水分を抜くことをせず、そのまま使って製品にしていた、とわかる。そのため、含水率が高く、ひび割れにつながっていた。「海外で質のいいものを手に入れるには、自分で生産するしかないな」。そんな思いが、残る。

台湾で初めて買い付けをしてから4年目、直輸入を本格化させた。翌年春、シンガポールに現地法人を設立する。半年後、株式を上場し、90年にはスイスフラン建ての転換社債などを発行した。一連の動きから次の一手が透けてみえるようだが、正直言って、まだ「海外生産」の4文字までは頭にない。

そんなころ、旭川の木工メーカーが経営危機に陥り、別の会社に吸収合併されることになる。専務が金曜日の夕方に飛んできて、「月曜日に合併が発表され、ニトリとは取引できなくなる。資金支援をしてくれれば、それが防げる」と訴えた。翌土曜日、取引銀行の役員を捜すと、ゴルフ場にいた。カートに乗って追いながら、緊急融資を要請する。専務は首を横に振り続けたが、例によって諦めない。ついに説き伏せ、承諾させた。借りた資金が、木工メーカーの借金返済に充てられた。