国際線の就航で生命現象も調査
1986年3月、全日空初の国際線「成田─グアム便」が就航した。7月には、ロサンゼルス便とワシントン便が、相次いで飛ぶ。それらの乗員編成を手がけた。前年に10年以上いた人事部から、航務本部(現・運航本部)の乗員業務部に移っていた。副部長で46歳。乗員組合との交渉は、国際線乗務に当たっての着陸回数、飛行時間、勤務時間の見直しが争点だった。
それまでは国内線しかなく、1回の乗務で着陸回数は4回、飛行時間は6時間、勤務時間は10時間までという「4・6・10態勢」でやってきた。だが、6時間では、ロスには着かない。勤務時間も、10時間で終わらない。いろいろ考えた末、ロス便に「1・11・14態勢」の採用と、乗員は機長、副機長、航空機関士2人の4人とする案を示す。
これに対し、組合側は、機長を2人乗せて副機長と3人で交代できるようにもする5人乗務を要求した。飛行時間が約14時間かかるワシントン便では、会社の「1・15・20態勢」と5人乗務の案に、副機長も2人とする6人乗務を提案してきた。双方の主張に大きな隔たりがあるまま、ロス便、ワシントン便の就航日を迎える。
やむを得ず、管理職の機長らで運航を始めた。まだ成田空港の発着枠が少なく、便数も多くなかったが、管理職の乗員は限られ、編成のやり繰りに苦労が続く。最終的に、乗務人数は譲らず、乗務手当を付け、休養日を増やす案で合意にこぎつけたときには、年を越えていた。
昔は、そんなふうに、労使は激しい対立を繰り返す。いまの世からすれば、わかりにくいことかもしれないが、賃金だけではなく、いろいろな待遇についても改善要求があり、年がら年中、交渉をしていた。70年代後半にはCAの「腰痛問題」があり、国際線に進出した際には「日照時間論争」も起きた。
腰痛では、米欧の航空会社を回って、実情を調べた。でも、各社とも「ときどき出るが、大きな問題ではない」と言う。休養のとり方など議論を重ね、4年がかりで対応する。日照時間のほうは、地球の自転とともに日照下の勤務が続く場合、大きく影響を受けるというのが組合の主張だ。「サーカディアンリズム」と言って、動物の睡眠や覚醒など、生き物に備わっている「ほぼ1日を単位とする生命現象」のリズムが狂うとの指摘だ。研究機関に調査を依頼したが、はっきり答えが出ない。世界のどの航空会社にも長時間勤務はあり、似た時間割りだ。結局、これも休養日数で、解決を図る。
人事や勤労の仕事は、踏ん切りが難しい。後々まで、何かが残る。残さないようにしたかったが、どうしても、すとんと腑に落ちないことがある。達成感に届くことが乏しく、辛い。でも、暗く落ち込むことはない。というよりも、むしろ「これを実現すれば、会社も社員も一歩、前進できる」と考えた。後ろを振り向かず、淡々と前を見据え続ける。
「不將不逆、應而不藏」(將(おく)らず逆(むか)えず、應(おう)じて而(しか)して藏(おさ)めず)――過去を悔やまず、先のことに取り越し苦労もせず、時機に応じて適切な措置をとり、結果は淡々と受け止めて心に留めないとの意味で、中国の古典『荘子』にある言葉だ。「今日より明日は、もっといいはずだ。もし明日が悪かったら、明後日はよくなる」との前向き志向を信条とし、難題に直面しても、過去のことに縛られず、明るい将来を信じて、状況や時代に応じて課題を処理し、淡々と仕事を続ける。そんな大橋流は、この『荘子』の教えに重なる。
1940年1月、満州(現・黒竜江省)の佳木斯(ジャムス)で生まれる。父は岡山県出身で、足袋会社に入り、満州の港町・大連で勤務する。やがて独立し、日本人が約30万人いた佳木斯の街で、雑貨の貿易会社を営む。兄と姉がいたが、自分が生まれる前に亡くなっていた。45年8月、ソ連軍が参戦し、満州へ攻め入ってきた。兵役に行っていた父は捕虜となり、シベリアへ抑留される。
自宅の裏に爆弾が投下され、母は女であることを隠すために散切り頭にして、幼子の手を引いて南へ逃げる。2カ月後、約500キロ離れたハルピンへ着く。翌年暮れ、ようやく引き揚げ船に乗ることができたが、粗食と疲労でやせ細り、極度の栄養失調になっていた。船中で亡くなる人が続き、遺体が海に流されると、
「次は自分かもしれない」と思ったが、生還する。何事も最後まであきらめない「前向き志向」は、この体験が植えつけた。