先輩を「諭した」5億ドルの出資
1986年9月、ニューヨークに出張していた先輩から電話が入る。先輩は、米国で企業向け投資銀行業務を拡大するために、有力投資銀行のゴールドマンサックスへ出資する交渉を進めていた。だが、金融機関を監督する連邦準備銀行が、様々な制限を加えてきた。出資比率は8分の1にとどめる。それも、議決権のない株式とする。さらに、ゴールドマンは、住友銀行からの実習生を受け入れてはいけない。東京で計画している両社の合弁会社にも、住銀は人を送り込んではいけない。
日米とも、銀行と証券会社は別々に活動する「銀証分離」の時代だった。だから、制限は投資銀行業務、日本で言う証券業務への住銀の関与を、連銀が嫌ったためだろう。ゴールドマンが、独立性を維持するために、働きかけたのかもしれない。でも、そこまで痛めつけられては、当初の構想から大きく後退する。
先輩は、電話の向こうで「屈辱的だ。もう、やめよう」と怒った。それに、即座に答えた。「いや、最初は純投資にとどまっても、将来にチャンスがあるかもしれません。これでも、大成功ですよ」。米国で投資銀行業務を展開するとしても、一気に進まなくても仕方ない。ゴールドマンの株主資本利益率(ROE)は30~40%台で推移していた。純投資としても十分に見合うから、しばらくそれでつないでおけばいい。そんな理屈が、頭の中を走った。
41歳で、まだ国際企画部の次長。6歳も年上で取締役寸前の先輩に、ずいぶん生意気な口をきいた。だが、先輩は一瞬黙っただけで「わかった」と応じてくれた。
住銀は、前年にコンサルティング会社を使って「今後、米国で何をやっていくか。個人向け小口業務(リテール)に力を入れるか、企業向け投資業務(ホールセール)を選ぶべきか」を探っていた。秋口に出た答申は、「リテールを手がけている加州住友銀行を強化する道もあるが、日本のお客にも役立つ投資銀行業務をやるべき」だった。
ドル安誘導の「プラザ合意」ができたころで、円に投資される国際資金の流れをどう取り込み、ビジネスにつなげていくかが課題だった。答申について、7回も経営会議に乗せた。でも、結論が出ない。自分は知らなかったが、そのとき、住銀は平和相互銀行の買収にも動いていた。そちらを優先すべきかどうか、資金を分散させずに系列証券会社を育てるだけにとどめておくか、首脳陣の意見はまとまらない。
年末に、ようやくゴーサインが出る。出資を求めていた投資銀行は、モルガンスタンレーとゴールドマンの二社。どちらを選ぶか、ニューヨークで折衝する役に、冒頭に出てくる先輩を推した。「ほかに、人はいない」。そう確信させる「縁」が、それまでにあった。86年暮れ、ゴールドマンへ5億ドルを出資する。10月には、経営が破綻した平和相互銀行の買収も決めていた。ゴールドマン株は、結局、2002年に売却した。16年間の配当と売却額から弾くと、投資額のほぼ4倍になる。
この先輩との縁は、75年に始まった。銀行に入って8年目。米国留学から戻り、国際管理部へいくと、安宅産業の経営破綻が待っていた。国際管理部は海外からのテレックスの受け口で、9月末から「安宅が、カナダの石油精製プロジェクトでおかしくなっている」という話が飛び込んできた。住銀は安宅のメーンバンクではなかったが、主要取引銀行の一つ。緊迫した文面を斜め読みしながら「これは、大変だ」と思う。
ある日、対応を協議していた部長に呼ばれた。テレックスにある英文の意味が、つかめないらしい。留学し、国際法務を勉強してきたばかりの身には、何でもない。すらすらと説明すると、目に留まったらしい。11月半ば、隠密に米国へ飛ぶ部長と同行するよう、指示が出た。
米国の安宅オフィスで、契約書などを点検した。それを、一人で和訳する。1週間で終えて、オタワ経由で帰国した。石油精製のパートナーがオタワの事業家で、カナダの破産法を調べておく必要があった。帰国便の狭い座席で、報告書を書く。
のとき、債権回収や製油所の売却を受け持ったのが、あの先輩だ。
「オレは、法律はわからない。契約とか訴訟のことは全部、お前に任せる。資金調達に絡んだ投資銀行との交渉のほうは、任せろ」。そんな役回り分担が、以後の案件でも続く。84年にあったスイスのゴッダルト銀行の買収でも、先輩が現場の交渉役で、自分は本部での調整役。先輩に言わせると、「オレは、情や感性で動く右脳型。奥は、論理的な思考ができる左脳型だが、右脳型の情もある。バランスがよく、調整役にぴったりだ」ということらしい。