※本稿は、風来堂『カラーでよみがえる軍艦島』(イースト新書Q)の一部を再編集したものです。
日本初の鉄筋コンクリート高層住宅は軍艦島の30号棟
明治期から大正期にかけての日本の民間住居は一般的に木造住宅が多く、軍艦島でも木造の炭鉱長屋住宅が立ち並んでいた。1916(大正5)年からは、過密な人口対策と住宅戸数を増やすため、日本初の高層鉄筋コンクリート(RC)造アパートに建て替えを行った。国内最古のコンクリート(RC)造アパートとなった軍艦島の30号棟は、当初は4階建てだったが増築されて地上7階建ての大きなアパートになった。この小さな島に高層のアパートが建設されたことから、どれだけ人口が多かったかが想像できる。
なお、この30号棟の設計者が、イギリス商人であるトーマス・グラバーが住んだ「グラバー邸」の主人と交流があったことから、通称「グラバーハウス」と呼ばれていた。
三菱鉱業(現・三菱マテリアル)の炭鉱として栄えた島の住居は、基本的に社宅または寮であった。そのため、鉱員である三菱の職員や鉱員と家族、そして下請けで働いていた者は家賃が無料だったため、その心配をする必要がなかった。とはいえ、住居のレベルには仕事上の立場により明確な格差があった。
鉱員なら家賃はタダだが、住居は地位による格差あり
1949(昭和24)年にはすでに建設されていた幹部が住む鉱長社宅(5号棟)は、島内で最も恵まれた稜線上にあり、眺望も抜群で島では唯一の本造2階建て、内風呂がある高級住宅だった。職員社宅(2、3、8、14、25、56、57号棟)も見晴らしの良い高台に建てられていた。部屋の広さは2Kないし3Kのものが多く、1959(昭和34)年以降に建設された幹部職員住宅には内風呂があった。
その反面、鉱員社宅(16〜20、30、65号棟)は共同浴場と共同トイレであった。通称「日給社宅」と呼ばれた16〜20号棟は北西側の低地に建てられ、防潮壁の役割を担っていたため窓は小さく風通しも良くなかった。
海に囲まれた軍艦島の30号棟下層階では、常に湿気や悪臭に悩まされていたという。また、海が荒れると最も激しい風雨や波が打ち付ける場所に建てられていたため、階段を伝って雨水が階下へ降り注いだ。台風の後には1階が水没して家財道具などが浮いていたということもあった。