常連客のつぶやきが名物メニューになった
斉風瑞さんと客の関係でもうひとつ興味深いのは、客が口にした料理のアイデアを積極的にメニューに取り入れてしまうことである。職人気質の料理人だったら「二度と来るな」と怒り出すような場面で、むしろ斉さんは「これはヒントになる」と客の言葉に聞き耳を立てていたというのだ。
象徴的なのが、現在も「ふーみん」の名物料理のひとつである「ねぎワンタン」誕生のエピソードだ。常連客のひとりだった和田誠(「週刊文春」の表紙画を描いた、日本を代表するイラストレーター)が「ねぎそば」を食べていて、「ねぎそばのそばを、ワンタンに替えたらどう?」とつぶやいたのが、事の始まり。
ねぎそばは、斉さんが高校生の時、ルーツである台湾を初めて訪れて食べた「葱油鶏」をベースにした、ふーみんの看板料理のひとつである。和田はその看板料理の麺を、ワンタンに変えてみてはどうかと提案したのである。
【斉】25歳で自分のお店を持ったでしょう。純然たる中国料理に精通していたわけでもないし、料理の本を読んだことすらなくて、わが家で食べていたものをメニューにするところから始まっているんですね。だから、引き出しがとても少なくて、少しでもヒントになると思ったら耳をダンボにして聞いていたんです。ふーみんのメニューって、映画にも出ていたように、お客様との会話から出来たものが多いんです。
神宮前の店は「中華風スナック ふーみん」であり、骨董通りの店は「中華風家庭料理 ふーみん」。いずれも「風」がついている。そこには、斉さんが料理学校や中国料理の名店で本格中華を学んだ経験がなく、あくまでも家庭料理の延長でやっているという意味が込められている。
賭け事が好きだった父親は、思いがけない形で斉さんに大きな財産を残すことになったわけだが、「風」だからこそ、さまざまなアイデアを取り入れながらメニューをブラッシュアップしていくことが可能だったのかもしれない。
【斉】私ね、人の真似をするのがうまいんですよ(笑)。
「婚約者の両親に提供する気持ち」で400人の客をさばく
1986年5月、斉さんは40歳にして、南青山骨董通りにある小原流会館の地階に店舗を移した。店舗の面積は神宮前時代の約3倍。席数はカウンターとテーブルを合わせて41席ある。
骨董通りの「ふーみん」もたちまち人気店となって、ランチには大行列ができるのが通例になった。ランチで300人、ディナーで100人の客をさばいたというから、厨房は目の回るような忙しさだった。
【斉】(客席が見渡せるオープンキッチンなのに)後ろを振り向く暇もないほど忙しかったですね。