ブランド品獲得に情報を事前収集

伊藤忠商事社長 
岡藤正広
(おかふじ・まさひろ)
1949年、大阪市生まれ。74年東京大学経済学部卒業後、伊藤忠商事に入社。97年アパレル第三部長、99年輸入繊維事業部長、2002年ブランドマーケティング事業部長、04年4月常務執行役員・繊維カンパニープレジデント、同年6月常務取締役、06年専務、09年副社長。10年より現職。

1994年から95年にかけて、イタリアのベルガモに本拠地を置く高級ブランドとの契約更新で、思わぬ事態に遭遇した。数年前、独占輸入販売権や製造販売権に他社へのライセンス供与権も加えた「マスターライセンス」を得て、スーツから靴下まで幅広く手がけ、人気商品に育てていた。だが、契約更新時が近づいて、ブランドビジネスに出たがっていた繊維企業が、誰もが驚く金額を提示し、割り込んできた。

張り合って、法外な額を出すわけにはいかない。大赤字は明白だ。でも、契約が切れれば、ライセンスを二次的に受け、製品を製造してきた各地のメーカーや主力商品として売っている百貨店が、大きな打撃を受ける。アパレル第3部の輸入繊維第一課長、45歳のときだった。

ただ引き下がるのは、性に合わない。考え抜いた末、答えを出す。活路は一つ、そのブランドに負けない別ブランドを手に入れるしかない。ただ、ライセンスを得て製造・販売するには、デザインを受け取ってから1年はかかる。そこで、契約が切れるブランド側と交渉し、猶予期間を1年置くことに同意させた。

新たに手がけるブランドは、狙いをつけていた。フランスの人気ブランドの「レノマ・パリス」。63年にパリで男性用の高級既製服からスタートし、70年代前半には日本へ上陸した。実は、常に情報を集め、様々なケースを想定し、どのようなことが起きたらどんな手が打てるのかを考えておく「予習型経営」の手法が、ここでも実を結ぶ。

猶予期間が終わった96年、「レノマ・パリス」を日本で一手に扱う権利を獲得した。下着やシャツ、ネクタイから眼鏡、時計、傘など30種を超える商品が、全国24社の店頭に並ぶ。売り上げは、時間を置かず、前のブランドを超えた。ブランドビジネスで成功を重ねていた伊藤忠においても、大いなる戦果。何よりもうれしかったのは、運命共同体とも言える24社のビジネスに、空白をつくらずにすんだことだ。

予習型は、いつから身に付いたのだろうか。学生時代は、復習はやっても、予習をした覚えは、あまりない。大きく一歩を踏み出したのは、40歳に近づいたころ、「アルマーニ」の独占輸入販売権を手にしたときではないか。著名ブランドの中でも抜群の人気があり、激しい争奪戦が続いた。伊藤忠が獲れると思っていたむきは、ほとんどいなかった。

当時、ベルガモにある名門出の男が日本に来て、ビジネスの勉強をしていた。前述の契約更新を見送ったブランド側に立ち、伊藤忠を監視した時期もある。何でも「ノー」で、ずいぶん、てこずらされた。でも、86年半ばに帰国が決まった際、料亭で送別会を開いてやった。ほしがっていた「ウォークマン」も、餞別にあげた。そして、打ち明ける。

「実は、アルマーニと取引がしたい。9月にイタリアへいくから、相手の責任者と会えるようにしてくれないか。その前に、先方が日本でパートナーとなる企業に何を期待しているのか、よく調べてほしい」。そう頼み、交渉の先兵役に雇う。もちろん、それなりの報酬を払った。

運がよく、男の父親が凄腕で、そうとう図太くもあった。「アルマーニ」の本社を訪ね、何をパートナー候補に期待しているのか、聞き出した。ついには提案書を下書きし、オーナーの腹心だった副社長に「これで、どうか」とみてもらう。副社長も波長が合ったのか、「いや、ここは、こうだね」と答えてくれた。

予習を超えて、試験の前に答えを教えてもらったようだった。9月、面会の約束がとれ、相手側が期待する通りの提案書を持参する。商社やデパート、アパレル業者など、あまたの競争相手を振り切って、翌87年、独占輸入販売権の契約に至る。

同時に、情報の事前収集の重要さを痛感した。重要なのは、収集にかける費用や時間に比べて、はるかに大きな成果を得られるからだけではない。どんな問題が起き得るかをみつけ出し、起きないように手を打っておくことも可能となる。労力やコストは、問題が起きてから解決に費やすより、ずっと小さくてすむ。

例えば、契約内容だ。どういう文言を入れておけば、何かあったときでも、負担が軽くてすむか。あるいは、問題が起きずに済んで、どれだけ楽か。30代まで、そういう準備もせずに、「何とかなるだろう」でやっていた。確かに、すべて切り抜けてはきたが、苦労もした。だが、次第に「契約で、ここが不備だったから、こんなに苦しむのだ」「ここに、ひと言、こう入れておけばよかった」と、気づいていく。