忌野清志郎の起用 惰性を断ち「先へ」
1998年4月、月刊誌に「ビッグバンの先へ 日本生命 チャレンジ報告」と題した頁大のカラー広告を載せた。説明文が中心で、サービスの質の向上、価格競争力を持つ提案力、「AAA」の最高格付けへ向かう経営内容の健全性の3点を強調し、「スローガンをスローガンに終わらせない。ニッセイの決意です」と結ぶ。
広告は6回続け、高齢化社会に備えた「老後資金三分法」、21世紀に勝ち残るためのニッセイグループの総合力、経営陣の死去や退職に備えた事業継承のための準備プランなどを、次々に掲載する。有名女優を使った従来のイメージ広告から様変わり。日本生命が持つ各種の底力を世の中にもっとわかってもらい、人々の役に立ちたい。そんな「思い」を、強く反映させた。
前年春に市場開発部次長となり、広告宣伝の担当課長を兼務した。43歳。部下はわずか8人だが、会社のために、お客のために、何ができるのか。入社以来初めてといっていいほどの燃えるものを、感じた。
「ビッグバンの先へ」とした題も、そんな思いから決めた。
当時、国内の生命保険市場は成長のピークを超え、自社の保有契約数も下がりかけていた。そんな状況下で、競争他社とどう違いを出すか。市場調査では、日本生命は広く安心感を持たれてはいたが、斬新性や先進性に欠けているとのイメージを抱かれていた。だから、とにかく「先へ」という言葉を使いたかった。
シリーズ広告では毎回、何を、なぜやりたいのか、自ら広告代理店の面々に説明した。惰性を断ち切り、新機軸を打ち出すには、それだけの思いがある。やはり、部下任せでなく、責任者自身がその思いを語るべきだ。部下たちには、くどい説明は不要。そうした姿を静かにみせることが、大切だ。その信念は、社長になったいまもある。
代理店から出た案や部下の意見を受け取ると、入れるべき最適の言葉を探す。広告や宣伝は、社外だけでなく、社内にも響くものでなければダメ。そう思っていたし、言葉を選び、書くことが好きだった。原案を自宅に持ち帰り、じっくり考え、翌朝、部下に書き換えの指示を出す。半年間、そんな日々を重ねる。
広告には、会社のロゴマークも添えた。ロゴは88年、創業100周年を機に導入された。広告宣伝部門にきて、そのロゴに「新ニッセイ宣言」の標語を加えた。そして、部下たちに「会社のありとあらゆるものに、この標語付きのロゴを入れてくれ」と指示する。名刺や封筒から看板に至るまで、対象は1万種近くもあり、それぞれ担当部署も違って、大変だった。だが、やり抜く。
6万人から7万人の営業職員が、常にその標語を目にする。そこで、「この『宣言』とは何か」を反芻する。そのことで、全員の意識を1つの方向へ揃えていく。そんなベクトル合わせも、狙っていた。
30代まで、会社のことをやや斜めにみているところがあった。評論家というか、物事をバカ正直にみることに、抵抗感さえあった。でも、40代に入り、自身が評論していた対象の側に立つ。そこから、真の当事者意識が出てきた気がする。
もちろん、新機軸は、1人で決めて、1人で進めたわけではない。会社にも、仕事にも、真っ直ぐ向き合うようになると、自分の思いに部下たちの思いも重ねるようになっていく。それに、多くの頭脳や目を活かしたほうが、より大きな突破力となる。その1つの例が、個性派歌手・忌野清志郎のCM起用だ。
若い部下の発案で、97年7月から放映した。だが、社内外ともに評判が悪い。髪形が変わっていて「汚い」とか、叫ぶように歌うので「会社のイメージが悪くなる」などという意見が届く。当時、神戸で猟奇的な事件があり、取引先から「事件にCMの映像が重なる」との苦情もきた。でも、そうは思わないので、出向いて説明した。社内で心配する役員や部署を回り、「若い連中に任せましょう」と説き、了解も得る。
結局、約10カ月、予定通り放映した。そのとき、市場調査で示された企業像から抜け出し、会社が持つ古い殻を1枚、破ることができた気がした。狙い通りだった。