部下の創意を育む「段取り八分」の心
1984年春、東京都心で開かれた社内のQC(品質管理)活動の発表大会で、「やったぞ」と頷いた。関西支社の業務課の部下の女性たちが、全社のQCサークルのなかで最優秀賞に輝いたのだ。当時、業務課長。満40歳だった。
業務課は、82年1月の組織改革で、大阪市北区にあった関西統括店が支社に格上げされたときに新設された。兵庫と京都に支店、奈良と和歌山に営業所があり、約500人の社員を抱えていた。業務課は約30人の部隊で、総務、予算管理、労務管理から交通安全までを担う関西地域の仕切り役。初代課長を務めた。
当時、関西支社では営業マンの交通事故が多かった。そこで、「QC活動で、業務課は交通事故撲滅チームをつくろう」と提案し、女性だけのチームを編成する。女性陣は月1度、「安全ニュース」を出した。そこに、事故を起こした人間へのインタビュー記事を載せる。「何で事故を起こしたのですか?」「そのとき、どういう仕事をやっていましたか?」「結果、どう反省していますか?」などと、ソフトに聞くので、事故を起こした側も率直に答える。でも、本音は、記事に載りたくはない。やがて、営業マンたちは運転に注意深くなり、事故が激減する。全国最優秀賞の受賞は、東京支社へ転勤する直前のことだった。
事故を起こした社員へのインタビューは、女性たちの発案だ。自分はいつも、管理職として物事の優先度を考え、担当者を選び、任務の方向性を示すだけ。具体的にどうやればいいかは、部下たちに考えさせる。だから「段取り八分」が口癖だ。段取りさえでき上がれば、もう、やるべき作業の8割はすんでしまう。あとの2割を、部下たちが考える。
段取りを考えるときは、やはり、費用対効果を考慮する。やりやすいか、やりにくいかといった難易度では、道は選ばない。同じ関西支社で直面した巨額の債権回収でも、その姿勢で臨んだ。83年、スーパーなどにも納入し、全国一の規模だった管内の牛乳販売店が、安売り合戦に不動産投資の失敗が重なり、経営が行き詰まる。億円単位の売掛金が回収できず、大きな穴が空きかけた。販売店はあちこちから借金をして、ついには危険な街金融にも手を出していた。社長室の隣の部屋に街金融の関係者が居座り、少しでも入金があると、持っていってしまう。自分たちが集金にいっても、帰りに、脅すように手荷物を調べられた。
ここで、最大限の回収を目指し、段取りを整える。中堅企業や中小企業にもオフィス用コンピューターが普及したころで、その牛乳販売店も社長室に入れていた。そこに目をつけ、ある晩、隣の部屋の見張りに気づかれないように、オフコンで顧客データを打ち出す。売掛金の台帳や領収書、債権譲渡契約書もそろえ、自分のトレンチコートで包んで窓から投げた。外には呼んでおいた部下がいて、持ち帰る。支社で販売店の顧客から直接、集金するためだ。
自分たちの役割はそこまで。あとは収納係に任せ、3カ月かけて売掛金の多くを回収する。段取りでは、誰に何の役をさせるか、人事と配置が大事だ。それが整えば、後は楽。そのころの収納担当は、風貌がいかつく、街金側も一目置いていた。
「勞於索之而休於使之」(之を索むるに勞して、之を使うに休す)――その任務に適した人をみつけて就けるまでは苦労するが、いったん人を決めたら、その人に一任し、自分は安んじていればいいとの意味で、中国の古典『荀子』にある言葉だ。段取りで配置を重視し、あとは任せる浅野流は、この教えに重なる。
1943年9月、東京・神田神保町で生まれる。妹が1人。小学校に入る前日、街で火事があり、自宅が延焼。芝大門へ引っ越した。父は国家公務員。何軒か貸家を持ち、その一軒を中国人に貸していた。戦後、その中国人が戻ってきて、「中華料理店をやりたい」と言った。食糧難の時代で、新橋と新宿に出した中華料理屋は大繁盛。父はそれをみて「中華料理屋は儲かるな」と思ったらしく、火事の後、役人を続けながら中華料理店の経営を始めた。
父の兄が戦前は東京・赤羽で酪農をしていたが、戦争中にやめて、明治牛乳の販売店を始めた。そんな具合で、子どものころから「食」の世界が、ごく身近にあった。小学校のときから体が大きく、麻布中学、高校を経て学習院大学法学部を出るまでの10年間、柔道部ですごし、最後は3段になる。