1カ月の入院中自問自答重ねる

伊藤忠商事社長 
岡藤正広
(おかふじ・まさひろ)
1949年、大阪市生まれ。74年東京大学経済学部卒業後、伊藤忠商事に入社。97年アパレル第三部長、99年輸入繊維事業部長、2002年ブランドマーケティング事業部長、04年4月常務執行役員・繊維カンパニープレジデント、同年6月常務取締役、06年専務、09年副社長。10年より現職。

1991年2月、左耳の奥に妙なものができて、手術を受ける。1カ月、入院した。大阪本社輸入繊維第一課の課長代行で、41歳。「男の厄年」から「後厄」に入ったときだ。並みいる商社を尻目に、人気ブランド「アルマーニ」の独占輸入販売権を獲得し、全国のアパレル業界に名を轟かせた直後。一気に攻勢をかけようとしていた矢先だった。

いつからか、耳の具合がおかしかった。酒を飲みすぎると、耳から膿のような液体が出てくる。耳鼻科へ通い、治療を受けたが、治らない。詳しい検査を受けにいくと、鼓膜に穴があき、奥に小さなかたまりができていた。耳は脳に近い。「脳まで影響するといけないから、大阪大学の病院へいって、すぐに手術を受けなさい」と言われ、驚いた。

阪大病院での診断は真珠腫性中耳炎。鼓膜の上皮の細胞が内側に入り込み、増殖して真珠のようになっていく。放っておくと、耳の周りの骨を溶かしていく病気だ、という。すぐに入院し、手術を受けた。

一カ月、病室ですることもない。窓から外ばかりをみていたら、ある日、ホームレスのような人が歩いていた。ふと「ああ、あの人がうらやましい」との思いが浮かぶ。毎朝5時起床で、検査が繰り返される。病院食しか食べることができず、夜は9時に消灯だ。「こんな身よりも、ボロ着でも、寒風の中であっても、どこでも自由にいけるあの人のほうが幸せではないか」と考え込む。

それまで、仕事で走り続けてきたが、じっくり考える時間ができた。40代は、家庭のことで、いちばん悩む世代ではないか。子どもたちが反抗期に入ったり、受験の時期を迎えたりで、妻たちは「不在」ばかりの夫への不満が募る。夫の両親との関係でも、苦労が耐えない。そういう例を、多くの先輩や取引先の人から聞いた。そんな苦労に比べれば、仕事など、いかに簡単なものか。

だが、この世代は、職場でも苦労が増す。管理職と営業第一線との間に置かれ、双方の役割を務めなければならない。責任は、重くなっていく一方だ。先々が順調に進むか、進めなくなるかの分かれ道も近づく。

端からみると順調で、何もかもがうまくいっているようにみえても、人それぞれに悩みはある。だから、「自分だけが不幸だ」というような考え方は、間違えている。そこで暴走せず、じっとこらえて、一つ一つちゃんとやっていけば、仕事も家庭も、自分の健康も、いつか道が開けるのではないか。ベッドの上で、そんな自問自答を重ねた。

91年には、革製品などの人気ブランド「ハンティングワールド」の輸入販売権を獲得した。代理店との関係がこじれていると聞き込み、取引を企画立案し、実らせた。契約すると、すぐに部下に「ハンティングワールドから買い付けをしてこい」と命じ、ニューヨークへ派遣する。部下は入社してまだ5年。そんな経験もなく、不安げだった。

持たせた書類の間に、そっと、メモをしのばせておく。そこには「ヨチヨチ歩きのアヒルが、将来、立派に独り立ちする日が楽しみです」と書いていた。部下は、買い付けに向かう途中でメモに気づいて読み、気が楽になると同時に、感激する。入院と手術の体験ゆえか、そんな気遣いができるようになっていた。

1949年12月、大阪市で生まれた。弟が1人。父は戦地へいき、終戦後に帰国して商売を始め、ほとんど家にいなかった。子どもたちの教育は、母の役割だ。小学校から高校まで、公立学校を進む。高校3年の2学期に、大学受験用の健康診断で結核がみつかった。手術を受け、自宅で1年間療養する。そのとき、父親がクモ膜下出血で急死した。

病床で「大学受験を、諦めなければいけないのではないか」と思う。友だちは病気になっていないのに自分だけがなった。運が悪かったのだろうが、不摂生でもあったのか。思い悩む日々。振り返れば、人生で最も苦しい時期だった。