邦銀系初の副幹事ユーロ債で壁に穴

日本政策投資銀行社長
橋本 徹(はしもと・とおる)
1934年生まれ。57年東京大学法学部卒業後、富士銀行(現・みずほ銀行)に入行。86年取締役国際審査部長、87年常務、90年副頭取を経て91年頭取、96年会長に就任。2000年富士総合研究所理事長。03年ドイツ証券東京支店会長。11年より現職。

仕事に余暇に、海外へ出る日本人は、いまや年間で1600万人もの規模となった。全国各地から、気軽に空を飛び、異国の文化や自然、食事や買い物を楽しんでいる。だが、岡山ですごした高校までのころは、外国へいくことなどは、まさに「夢のまた夢」の時代だった。

中学校のときはラジオの英会話番組に聴き入り、高校では英語クラブに入って、前号で触れたように教会にいた宣教師の通訳を買って出て、英語にひたる。大学進学の際も、文学部でシェークスピアの勉強をしようかと考えたほど、英語と外国への強い関心が続く。東大時代も英語研究会に入り、英語の授業では最前列に座り、先生の質問に積極的に手を上げた。夢は、海外勤務だった。

夢は、持ち続けなければ、実現はしない。そして、「学びの心」を失わなければ、実現が近づく。

1973年、富士銀行に入って17年目に、初めての海外勤務が始まった。国際企画部にいて、英商業銀行と合弁でロンドンに証券会社をつくり、初代社長として赴任した。米ドルが取引されるユーロダラー市場がロンドンで拡大し、日本企業もドル債を発行するようになっていた。だが、その先導役を、英国勢に独占されていた。「何とか、日本人の手で、日本企業のユーロダラー債発行を仕切りたい」。40歳を迎えるころ、そのチャンスがやってきた。

翌74年、キヤノンがロンドンで出したドル建て転換社債で、邦銀系証券会社として初めて幹事団入りした。主幹事は英国勢だったが、副幹事に山一証券とともに名を連ねる。輝かしい第一歩を、踏み出した。

だが、世の中、甘くはなかった。日本では、まだ銀行に証券業務への進出を認めていない時代。その垣根に、海外で穴があくことに怒った証券業界が、国会議員に働きかけたらしい。頭取が国会へ呼ばれ、つるし上げられる。その後、銀行系証券会社の幹事団入りは、凍結された。

30人近い合弁会社は、開店休業状態のようになる。それでも、英商業銀行などが手がけた債券を、細々とながら、日本の生命保険会社などに販売し、営業のノウハウを蓄えていく。若い面々には、債券の流通市場で売買の経験を積ませる。仕事が終われば、シェークスピア劇を鑑賞し、英語力に磨きをかける。逆境にあっても、「学びの心」が消えることはない。

75年、夏休みに、妻子とともにスコットランド巡りへ出かけた。車でネス湖などを回り、ホテルに滞在していたら、ロンドンから電話がかかってきた。出ると、「日本の大蔵省(現・財務省)で新しい合意ができて、証券会社の次に並ぶのであれば、幹事業務ができることになった。要は、債券発行の契約書で左上に証券会社名があれば、右上に銀行系でも入れるというわけだ。早くロンドンへ帰って、商売を始めろ」という、上司からの伝言だった。

「わかりました」とは答えたが、あと5泊の予定が残っていたので、5日間、南下しながらロンドンへ戻る。あわてる必要はない。凍結が解ければ、いつでも幹事業に復帰できるようにはしてあった。すぐに、富士銀行が主取引銀行を務めていた日本企業の債券発行を手がけていく。

発行した債券は、日本の金融機関にだけではなく、海外の金融機関にも売らなければさばけない。部下たちの担当だったが、しばしば参戦した。とくに、第一次石油危機で膨張したオイルマネーを引き込むため、サウジアラビアやクウェート、バーレーン、アブダビなど中東産油国を回る。出張は、いつも自分一人。中東はいろいろ不便だった時代で、苦労が多かった。

ロンドンには6年いたが、あまり自慢できる話はない。逆に、当時は知らなかったが、日本の幹部を怒らせたことはあったらしい。朝の始業は9時半で、昼休みが2時間と長かったうえ、午前と午後に「ティータイム」と呼ぶ休憩もあった。いずれも英国流だ。さらに、午後8時にビルが閉鎖されるので残業も短く、日本の朝に電話を入れてきても、オフィスでは誰も出ない。結局は翌朝、自宅に電話が入ることになるが、寝ぼけ声に幹部が怒っていたようだ。

別に、手抜きをしていたわけではない。幹事団入りが封じられていた間、仕事量は少なく、それで十分だった。でも、後から着任した部下が出発前に「何とかしろ」ときつく言われてきたようで、やがて始業時間が早まり、夜の8時以降は富士銀行の支店へいって仕事を続けるようになる。その効果か、債券の販売量が増えたのを、部下が覚えていた。