悩みをほぐした二度目の「神の声」

1934年11月、岡山県高梁町(現・高梁市)に生まれる。父母はともに学校の先生で、父は禅宗、母はクリスチャンと宗教は違っても、仲がよく、助け合っていた。母に、よく高梁基督教会の日曜学校へ連れられていく。英語に興味を持ち、中学時代には、ラジオの英会話番組に聴き入った。県立高梁高校でも英語クラブに入り、教会に来ていたスウェーデン人宣教師の通訳を買って出て、地域を回る宣教師の言葉を訳しながらキリストの教えを学ぶ。

東大法学部へ進み、やはり英語研究会に入る。研究会の部長を務める先輩に誘われ、柔道部にも入った。この先輩が、2008年10月に民営化された政投銀の初代社長、室伏稔氏だ。その縁で、今日がある。

57年4月、富士銀行に入り、新宿支店に配属された。翌年、銀行に留学制度ができて、米国留学を打診された。フルブライト交流計画の試験を受けて合格し、59年夏に米カンザス大学へ赴く。翌年秋、帰国直前に、首都ワシントンの団体から各国からの留学生を20人集めてセミナーを開く、との話が舞い込む。選ばれていくと、プログラムの中で、大統領選に出馬していたジョン・F. ケネディ上院議員との面会があった。その若々しい情熱に、強く印象づけられる。1年間の留学から戻った後は、ほぼ国際業務畑を歩む。そのなかで経験したロンドン勤務などについては、次回触れる。

91年6月に頭取に就任し、再び「神の声」を聞く。赤坂支店の課長級行員2人が取引先と共謀し、偽造した預金証書を担保にファイナンス会社から巨額の融資を引き出し、2570億円もの穴があく。衝撃だった。実は、バブル最盛期だった1、2年前から「銀行の倫理観が、危うい」と感じていた。支店の収益を上げるために外交へ出る際、「出陣」と称してライバル銀行の旗を踏みつけていく例まであった。支店長会議で「サービス業は格闘技ではない」と戒めたが、暴走は続いていた。

8月に衆議院の予算委員会に参考人として呼ばれ、9月には参議院へもいく。調べてわかった事実を、すべて話すことを決意したが、やはり怖さもあった。国会へ出向く前、頭取室のドアを閉め、祈る。「力の及ぶ限り、すべてやりました。でも、何を答えたらいいのでしょう?」。そんな問いかけに、神は「やりなさい、いきなさい、話しなさい。私が力になります。自分の知っていることを話し、知らないことは、正直に『わからない』『答えられない』と言いなさい」と語りかけてくれた。不思議なほど心が落ち着き、「安時而処順」の心で、国会へ出向く。

富士銀行の会長を退き、縁あってドイツ証券の東京支店や日本法人で「第二の人生」をすごし、08年9月に引退した。いや、そのつもりだった。先輩の室伏さんに頼まれ、翌月から政投銀の助言機関の一員になったが、それは、あくまで「奉仕」と考えていた。まさか、「第三の人生」が待っているとは思わない。

だが、昨年6月、室伏さんの後継社長に指名される。いま、民営化から4年目。その間に、日本航空の経営再建の支援、東日本大震災からの復旧・復興、原発停止を補うエネルギー源の確保、そして激しさを増す新興国向けインフラの商談と、濃密な時間が続く。こうした時代を、もはや政府に頼らず、組織を強化していくには、やはりガバナンスが重要だ。毎日、そう自戒している。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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