「幹部候補」だけで組織は回らない

<strong>古賀信行</strong>●こが・のぶゆき<br>1950年、福岡県生まれ。74年、東京大学法学部卒業、野村證券入社。91年総合企画室長、93年人事部長、95年取締役、99年常務、2000年副社長。01年、持ち株会社体制に移行し、野村ホールディングスが発足。03年野村ホールディングス社長兼CEO、野村證券社長。08年より現職。
古賀信行●こが・のぶゆき
1950年、福岡県生まれ。74年、東京大学法学部卒業、野村證券入社。91年総合企画室長、93年人事部長、95年取締役、99年常務、2000年副社長。01年、持ち株会社体制に移行し、野村ホールディングスが発足。03年野村ホールディングス社長兼CEO、野村證券社長。08年より現職。

企業で、よく「優秀な人間は2割しかいない。6割は普通で、あとの2割はダメ」という言い方をする。そして、上から2割に入るとみなした人間だけを対象に、幹部候補として特別な研修をするところが多い。だが、いかがなものか。2割の人間がいくら力を発揮しても、組織は回らない。「普通」「ダメ」と評価された多くが「優秀」とされる面々を支えているからこそ、必要なことすべてに手が回るのだ。

さらに気になるのは、評価が固定化しがちな点だ。ひとたび「優秀」とされた人間は、よく吟味されることもなく、「優秀」が引き継がれていく。でも、あまり成果が出ないときにも評価されると、仕事をしなくなることがある。評価を下げる刺激も必要だ。それより気の毒なのは、「ダメ」とされた人々だ。同じ「ダメ」でも、頑張ってそれなりに向上した人、努力はしたが横ばいだった人と、文字通り努力不足の人を区別しないのは、おかしい。

1993年6月、42歳で人事部長になったとき、野村の評価制度は5段階だった。でも、部長や支店長は、上から3段階までしか付けてこない。低い評価を受けたときの気持ちに配慮したのか、「自分の部下に、できないやつはいない」と強調したいのか。いずれにしても、日本人は差をつけるのが苦手なようだ。

着任したとき、人事部は評価制度の見直しに着手していた。当然だ。話を聞き、もっと多段階評価に改めることにした。より詳細に評価することで各人の強みをみつけ出し、意欲を引き出したい。もちろん、評価する側の負荷が増すから、抵抗も強い。「全員を1番とするなら、全員が3番なのと同じ。差をつけないと、部下が不幸になる」と説得する。

改革の方向性が出たら、あとの詰めは部下たちに任せた。もともと、勉強して自分で答えを出してしまうのではなく、部下の意見を聞いて、黙って整理しておくのが古賀流だ。会社にいるときだけでなく、休日は自宅でも、その整理をする。庭の草むしりをしながら、頭の中を空っぽにして、答えを探った。

「明不及察、寛不至縦。吏民安之」(明なれども察に及ばず、寛なれども縦に至らず。吏民之に安んず)――いくら物事がわかっていても、あまり細かいことには立ち入らず、寛大ではあっても、わがまま勝手にはさせない。そうできれば、部下の役人たちも民衆も、安心してついてくる。中国・南宋の朱熹が撰集した『宋名臣言行録』にある言葉で、細かい口出しと丸投げの双方を戒めている。「中庸」を好む古賀流も、この「明不及察」に重なる。

新評価制度は、94年秋に実施した。その間、「明不及察」で通したが、実は一度だけ、そっと手を出したことがある。休日に出社し、模擬評価をやってみたのだ。何段階にすれば、狙い通りにできるのか。「ダメ」でひとくくりにされてきた人々をもっと区別するには、どんな基準にすればいいか。いろいろやってみた。けっこう時間はかかったが、うまくできた。とりあえず10段階にすれば、何とかなる。部下たちが出した結論も同じで、ホッとする。

始めると、同じクラスの社員で、ボーナスに300万円ほど差がついた。メディアは騒いだが、世間で成果主義がもてはやされたころで、社内の抵抗はすぐに消える。定着には3年くらいかかったが、隠れた人材の発掘にもつながった。

人事部は、入社して最初に配属された部署だった。約3年いた。端から眺めて、「人をよくみる」というふうに運営されているのだろう、と想像していた。でも、16年ぶりに戻ってみると、すべてが単なる「作業」になっている、と感じた。それが、改革への原動力になる。

部長時代に、グローバル化の進展に備え、社内で海外要員候補を探した。すると、自己負担で英語力を磨いている人がいた。会社にとって、ありがたいことだ。そこで、TOEICの試験で前回より100点以上向上し、700点を超えたら、英語学校の学費の8割を払ってあげる制度をつくる。結果、地方の支店で営業をしていた男性が見事に基準を満たし、数十万円を受け取った。その後、海外勤務に就くことにもなる。してやったり、だった。