噴出した不祥事一変した「首領」

<strong>古賀信行</strong>●こが・のぶゆき 1950年、福岡県生まれ。74年、東京大学法学部卒業、野村證券入社。91年総合企画室長、93年人事部長、95年取締役、99年常務、2000年副社長。01年、持ち株会社体制に移行し、野村ホールディングスが発足。03年野村ホールディングス社長兼CEO、野村證券社長。08年より現職。
野村證券会長 古賀信行●こが・のぶゆき 1950年、福岡県生まれ。74年、東京大学法学部卒業、野村證券入社。91年総合企画室長、93年人事部長、95年取締役、99年常務、2000年副社長。01年、持ち株会社体制に移行し、野村ホールディングスが発足。03年野村ホールディングス社長兼CEO、野村證券社長。08年より現職。

1991年の初夏、「損失補填問題」が噴き出した。80年代後半のバブル期に証券投資を膨張させ、株価下落で巨額の損失を蒙った企業などに、野村など四大証券会社がその損失を埋め合わせていたことが、次々に明るみに出る。当然、「損失は自らの責任」とされて傷に耐えていた一般投資家は、「なぜ、大企業だけに補填するのか」と怒った。

相前後して、本店に広域暴力団の組長の口座があり、信用取引を認めていたことも判明する。系列のファイナンス会社が、巨額の融資に応じていたことも、報道された。世間は「野村は、暴力団にも損失補填していたのだろう」と受け止めた。

ひと月余りのち、株主総会の季節が来る。総会で、一般株主たちの不満が、激しくぶつけられた。そのとき、野村の社長の答弁が、問題を拡大する。メディアは「社長は損失補填について『大蔵省(現・財務省)の承認を頂戴し』と語った」と報じた。つまり、補填には監督官庁の了解があった、ということになる。

怒涛のように、報道陣が押し寄せた。社員の子どもが、学校でいじめのような目に遭う。若い社員が「会社のバッジをつけて、街を歩きたくない」と言い始め、社内は厭戦ムードに包まれた。その渦中に、いた。満40歳。前号で触れた総合企画室にいたときで、不祥事の後始末に追われる。対応策を、大蔵省の証券局へ報告する任務も受け持った。

連日、大蔵省詣でが続く。だが、大臣以下、「社長の答弁は、とんでもない」と激怒していた。ある日、証券局の課長のところへ、総会の録音テープを持っていく。辞任して副会長になった前社長が「オレは、そんなことは言っていない。『大蔵省のご処分を頂戴し』と言ったんだ」と主張したからだ。「承認」と言ったのか、「処分」だったのか。意味するところは、全く違う。

課長と2人で、テープを回しては巻き戻し、10回は聞いた。だが、前社長には、言語不明瞭なところがあり、判別ができない。でも、世の中は、報道通りに受け止めた。前社長は大蔵大臣に電話を入れて釈明したが、通らない。結局、副会長の職も辞任せざるを得なくなる。それだけで、すまない。「証券界の首ドン領」とも言われた田淵節也会長も辞めないと、大臣の怒りも世間の怒りも、収まらない状況になっていた。

暴力団組長との取引は言語道断だが、損失補填の問題のほうは、起こるべくして起きたとも言える。バブルがはじける前の89年、「特金」「ファントラ」と呼ぶ信託方式の株式投資が膨張した。一方で、期待通りに株価が上がらないケースが出始め、もめ事が増えた。値下がりした保有株を、決算対策に一時的に他社に持たせる「飛ばし」も横行する。ただ、相場全体の上昇が続いていたため、まだ問題には至っていない。

だが、その89年、日本銀行はバブル退治に金融引き締めへ動く。12月、第三次利上げを断行し、東京証券取引所の平均株価は年末の3万8915円をピークに、急落へと向かう。大蔵省はそれを見越したように、証券局長名で「損失補填の禁止通達」を出した。

通達とは別に、大蔵省の周辺から「市場を混乱させないように、90年3月までは大目にみるから、それまでに処理をしろ」との声が聞こえてきた。でも、社内は「補填など、とんでもない」との雰囲気だった。後になって振り返れば、この強気のムードが、株主総会での社長発言につながったのか。結局、「やるしかないな」となる。監督官庁周辺の声は、重かった。

大混乱のなかで、果たすべき役割は、よくわかっていた。お客との取引からは離れた部署にいただけに、まずは、事実関係を客観的に把握する。そして、一連の出来事が世の中にはどう映り、営業活動などにどんな影響が出るのか。その影響を、いかに最小にとどめるか。それを考えるのが、命題だった。

損失補填はすぐに状況をつかめたが、組長の口座のほうは、わからない。誰が話を持ち込んできたのか、誰かに弱みがあってそんなことになったのか。社内は疑心暗鬼になり、大御所の田淵さんまで顔つきが変わって、部屋のドアをノックする音にさえ、びくっ、としていた。不祥事は悲しかったが、「お手本」としていた人のそんな姿をみたことは、別の意味で悲しかった。2年間、秘書として仕えたときに感じ入った「太っ腹」な姿は、影を潜めていた。