全国の寺院の墓石などには、過去に蔓延した伝染病にまつわる“遺産”がある。たとえば約100年前にパンデミックが起きたスペイン風邪では、日本人だけでも約38万人が亡くなったが、そのことを伝える慰霊碑も多い。ジャーナリストで僧侶の鵜飼秀徳氏は「大阪の一心寺には、当時の薬剤師がつくった尖塔の形の慰霊碑がある。今回の新型コロナでもモニュメントを作ったほうがいい」という——。

100年前のスペイン風邪の死者を弔うための慰霊碑を薬剤師が建てた

日本の仏教は時に「葬式仏教」と揶揄やゆされる。その葬式すら近年は簡素化傾向であり、寺院の存在感は薄れつつある。

だが、全国の寺に残る葬式の記録や墓の存在には、侮れないものがある。世界がコロナ禍にある中、本稿では、日本の寺院に残されている「伝染病にまつわる遺産」について紹介したい。仏事以外でも、寺院には意外な役割があることを知ってほしい。

コロナウイルス感染症が広がりを見せる前の今年1月末。私は大阪・通天閣の近くの「一心寺」にいた。一心寺は、遺骨の粉を集めて阿弥陀仏に造形する「骨仏」の寺で有名だ。この骨仏については1月25日の本連載記事「もう限界 関西屈指の人気寺が“納骨制限”に踏み切ったワケ」で紹介している。

一心寺に残るスペイン風邪の犠牲者の慰霊碑
一心寺に残るスペイン風邪の犠牲者の慰霊碑(撮影=鵜飼秀徳)

実はこの取材時、境内で別の興味深いものを発見していた。「大正八九年流行感冒病死者群霊」と刻まれた慰霊碑である。これは墓地の入り口にあり、オベリスクのような尖塔の形状をした特殊な形状(奥津城と呼ばれる)だったので目に留まったのだ。

一心寺の慰霊碑は、1918(大正7)〜1920(大正9)年に日本で大流行した「スペイン風邪」における犠牲者を弔うためのものだ。施主は大阪市内で薬問屋を営んでいた薬剤師・小西久兵衛となっている。いわば医療従事者のひとりとして、人々の病状回復を願って当時のクスリを処方したのだろうか。しかし、願いはかなわず、多くの死者が出たことを無念に思ったのかもしれない。そして、後世の人に疫病の怖さを忘れないでほしいという気持ちを込めたのだろう。

新型コロナより多くの感染者・死者が出た

厚生労働省によればスペイン風邪は全世界で5億人以上の感染者を出し、死亡者5000万〜1億人という途方もないパンデミックをもたらした。日本でも2500万人が感染し、38万人以上が死亡している。日本においては、1918(大正7)年8月下旬から感染が広まり(第1波)、いったんは下火になるも1919(大正8)年秋から翌1920(大正9)年にかけて第2波が押し寄せたとされている。

被害は特に東京府や兵庫県で多かったとの記録があり、全国各地に蔓延した。一心寺の慰霊碑には「大正8年、9年」の記述がある。そのことは、大阪では第2波がより強力なものであったことをほのめかしている。大阪全域では、47万人以上の感染者と1万1000人以上の死者を出している。