今年は戦後75年目の節目の年だ。ジャーナリストで僧侶の鵜飼秀徳氏は「戦時下に多くの鐘は金属供出されてなくなった。寺の鐘が聞こえるのは平和である証。しかし、その歴史が忘れられている。責任の一端は非戦の誓いを表明していない宗教団体の側にもある」という――。
日本三大梵鐘のひとつ、巨大な知恩院の梵鐘は重要文化財指定であるため供出を免れた
撮影=鵜飼秀徳
日本三大梵鐘のひとつ、巨大な知恩院の梵鐘は重要文化財指定であるため供出を免れた

除夜の鐘も「やかましくて寝られない」とクレーム寄せる人々

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」

平家物語の冒頭にも描かれているように、梵鐘は寺院(精舎)を象徴する仏教アイテムである。私の幼い頃は、地域の寺の大鐘を力任せに打ち鳴らしては和尚さんに叱られたものだが、近年は鐘を撞かせてもらえる寺が本当に少なくなった。近隣からの「苦情」のせいだ。

除夜の鐘も「やかましくて寝られない」とのクレームで中止を余儀なくされるケースも出てきている。しかし、お寺の鐘は地域のコミュニティの核としての象徴であり、時には火災を知らせる防災の役割もあった。また、都会に出た人々の「原風景」でもあるかもしれない。都市化によって地域のお寺の鐘は「不必要」と考える人はいるかもしれないが、大変残念なことだ。

お寺の鐘の音が響く世の中は、平和である証なのだ。なぜなら、戦時下では地域に寺の鐘が響くことがなかったから。今回は「お寺の鐘」と「戦争」との関連性について述べてみたい。意外に思えるが、両者はとても密接な関係にあるのだ。

今年は戦後75年目の節目の年だ。まもなく広島・長崎の原爆投下の日、そして終戦記念日を迎える。だが、先般6月23日の沖縄全戦没者追悼式が大幅に規模縮小され、安倍晋三首相の参加も見送られた。

広島における平和祈念式典は、今年は一般席を設けず、3密を避けるために平和記念公園の入場規制を行うという。例年ではおよそ5万人が参加する規模感だが、今年は最大880席に留める方向だ。長崎も例年の1割ほどの参列者に抑える見通しだ。

集団感染を防ぐための式典規模縮小は致し方ないが、しかし毎年この時期には、戦争で亡くなった方々の冥福を祈り、「過ち」を反省することは続けなければならない。今日の日本の繁栄と幸福は過去の多大なる犠牲の上に立っているからだ。

もっといえば、宗教界はより深い反省が必要だ。各地の寺院と戦争との関わりを、今に伝えるのが各地の寺の梵鐘だ。戦時下では、戦争の道具に使われた。

銃器や軍艦などの製造のために渋谷駅前のハチ公像も回収された

私はこれまで3000カ寺程度の寺を訪問し、取材してきている。立派な鐘楼堂に、文化財に指定されている梵鐘が下がる寺もある。だが、中には鐘楼堂のみで、主役の鐘がないケースも少なくない。

長野県のある寺の鐘楼堂は、梵鐘が金属供出で取り外されたままになっている
撮影=鵜飼秀徳
長野県のある寺の鐘楼堂は、梵鐘が金属供出で取り外されたままになっている

それは戦時下における金属供出が下されたからである。金属供出とは、銃器や軍艦などの製造のために金属製品を差し出すことである。金属供出(金属類回収令)は戦局が激化し始めた1941(昭和16)年に出された。

家庭からは鍋などの金物類が集められたが、それだけでは到底足らない。軍部は学校や寺院などの公共施設が保有する「不要不急の金属」を目当てにし、拠出させた。たとえば、学校に置かれた二宮尊徳像がこの時、金属製から石像になっている。渋谷駅前のハチ公像も回収され、現在のハチの像は戦後に作り直された2代目である。