清水寺では仏具や仏像など金属製品12トンが供出された
京都の清水寺では仏具や仏像、参拝者用の手すりなど金属製品12トンが供出されたという記録がある(『清水寺史』』。
先日、大阪の四天王寺に取材に行った際にも、過去の戦争の痛々しい痕跡を目の当たりにした。四天王寺は聖徳太子が仏法興隆のためにつくった日本最初の官寺で知られている。
四天王寺では聖徳太子の偉業を奉賛するため、明治時代に「世界一の梵鐘」がつくられていた。全長は8メートル、周囲約16メートル、口径約5メートル、重量64トンという信じられない大きさの名鐘だった。鐘を衝くとその衝撃で地響きがしたという。およそ5年の歳月と8万円(現在では約8億円)の資金が投じられてつくられた。
しかし、1942(昭和17)年に供出されることになった。あまりの大きさにそのまま運び出すことは不可能であり、その場で細かく裁断されて外に出された。この鐘楼堂は現在、戦没英霊の御霊を祀る「英霊堂」として、平和のための祈念が続けられている。
一連の金属供出によって、国宝や重要文化財に指定されている一部の由緒ある鐘を除き、7万カ寺以上と言われる日本の寺に置かれた梵鐘の大半が溶かされて、戦争の道具と化していったのである。一説には国内の梵鐘の9割以上が戦時中に消えたという。
金属の梵鐘を出した後にドラム缶を下げたり、石をぶらさげたりした寺もあった。
滋賀県高島市の称名寺にはコンクリート製の鳴らない鐘が、今でも現役で使用されている。戦後、再び鋳造する資金もなく、鐘楼堂だけが今に残されているケースも少なくない。地域の寺の鐘楼堂をぜひ、みてほしい。あなたの菩提寺の鐘は、ぶら下がっているだろうか。
寺に残る戦争の痕跡は梵鐘だけではない
寺に残る戦争の痕跡は梵鐘だけではない。寺には戦前戦中につくられた「顕彰碑」という石碑が多く残されている。これは、軍人や英霊を祀り、讃え、戦意高揚に利用したものだ。
能や歌舞伎の演目でも知られる和歌山県にある道成寺には、日清・日露戦争時の大きな顕彰碑がある。その顕彰碑の台座には、日露戦争時のロシア軍の砲弾が埋め込まれている。1904(明治37)年の旅順攻囲戦でロシア軍を撃破した時の戦利品だ。この顕彰碑の前では戦時中、陸軍主導で、戦意高揚のための追悼法要が実施されていたという。
全国の寺院が、様々な銃後運動を展開した。各地の寺では戦死者には特別な戒名(戦時戒名)を付けた。墓誌を見れば戦死者の戒名には、「烈」「忠」「誠」「國」「勇」などの漢字が使われている。これは、当時の内務省からのお達しであった。