※本稿は、山中 伸弥『夢中が未来をつくる』(サンマーク出版)の一部を再編集したものです。
怒られてばかりだった研修医時代
「おまえは本当に不器用や、何をやってもダメやな」
医者の見習いである研修医になった私は、いつもそんなふうに怒られてばかりでした。
医者を志した私は神戸大学医学部を卒業し、整形外科の研修医として病院に勤務することになりました。
そこは当時改築したばかりの近代的できれいな病院で、最新の設備がずらりとそろっています。こんないい病院で研修医として勤務できるなんて、なんて自分はラッキーなんだろうと思いました。
しかし喜んだのも束の間、大きな壁にぶち当たりました。研修医には、指導医という先生がつきます。その指導医が、とてつもなく怖い先生だったのです。
研修医は、まず患者さんの傷口をおおうガーゼの交換などかんたんな作業から学んでいきますが、私はあまりにていねいにやりすぎるので、どうしても時間がかかってしまいます。
すぐさま先生から「早くせんか! そんなに遅くては患者さんがつらくなってしまうぞ」と怒号が飛び、急いでやろうとするとあせってしまい、かえって時間がかかったり、失敗を重ねたりします。
「自分は医者に向いていないのでは」
私は中学から柔道をやり、大学3年からラグビーもやっていたので、それなりに怖い先生や先輩に出会ってきて、じゅうぶん慣れているつもりでした。しかし、その病院の指導医は、これまで出会ったどんな人よりも怖かったのです。
研修医としての2年間、私はガーゼや点滴の交換といったかんたんな作業くらいしかやらせてもらえず、先輩たちが手術をするのを、ただただ眺めるばかりでした。
そんなある日のこと、私の中学からの親友が患者さんとしてやってきて、手術を担当させてもらうことになったのです。
ところが、あまりに慎重にやりすぎたため、慣れた人なら20分で終わるような手術に2時間もかかってしまいます。これには指導医や看護師さんたちだけでなく、手術を受けた親友にすらあきれられました。
そんなこともあって、自分は医者には向いていないのではないだろうか、と私はさんざん悩みました。
このころに、肝臓の病気にかかっていた父が亡くなりました。私が医者の道を歩みはじめて2年目のことです。父は、まだ57歳でした。臨床医の卵だった私にとって、父の死はとても大きな出来事でした。

