史料が伝える真実の「洞ヶ峠」
1582(天正10)年6月2日。京都・本能寺で明智光秀が織田信長を討った。
6月13日、山崎の戦いにおいて秀吉と光秀が激突する。この際、順慶が洞ヶ峠に兵を出し、光秀と羽柴秀吉のどちらが勝つかを見てから態度を決めた――。この逸話から、「洞ヶ峠を決め込む」という言葉まで生まれた。
光秀は信長亡き後の政権を築くため、各地の武将を味方につけようとする。姻戚関係にあったとも伝わる順慶もその一人だ。ところが、同時代史料を確認すると、話はそれほど単純ではない。『多聞院日記』『蓮成院記録』などによると、順慶は洞ヶ峠で戦況を眺めていたのではなく、郡山城で軍議を重ね、明智方からの働きかけに対して態度を明らかにしなかったとされる。その後、秀吉が毛利方と和睦して東へ向かっているとの情報を得ると、順慶は秀吉に従ったという。
つまり、優柔不断で日和見を決め込んでいたわけではなく、極めて冷静に情勢を見極めてから決断した。十数年前、信長との関係を見誤ったが、同じ轍は踏まなかった。「洞ヶ峠を決め込む」という言葉の意味は、本来は全くの逆だったのだ。
織田信長が死に、明智光秀が敗れ、天下の主導権が秀吉へ移る。その混乱をたくみに乗り越えた順慶は、大和の支配者として生き残った。
順慶は秀吉の家臣となった後、秀吉率いる戦線にも関わった。1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いでは順慶は病を抱えながらも秀吉方として出陣。だが、この戦いの後、順慶の体調は悪化してゆく。
そして大和一国は筒井家から秀長へ
1584(天正12)年、順慶は36歳で死去した。あまりにも早い死だった。郡山城を本拠として、これから領国経営に力を注ぐはずだったが、それは叶わず。順慶には実子がなく、跡を継いだのは養子の筒井定次だった。
定次もまた、秀吉に従い各地を転戦している。特筆すべきは1585(天正13)年の紀州攻め。敵対する根来衆が籠る千石堀城の攻城戦において、定次軍が放った火矢により、城内の火薬庫が爆発したとか。前代未聞の落城劇の真偽のほどは定かではないが、この戦いで定次が大きく貢献したのは間違いないだろう。


