「源平藤橘」と並び立つ存在に
「今よりわしは、羽柴豊臣朝臣秀吉じゃ」
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」10月4日放送回で、羽柴秀吉は「豊臣」と大きく墨書きされた半紙を掲げ、こう宣言した。
読み方とそれそれの名詞の意味は、羽柴(はしば/名字)-豊臣(とよとみ/姓)-朝臣(あそん/朝廷の臣下としての身分や地位を示す呼び名)-秀吉(ひでよし/実名)。並べると「はしば-とよとみ-の-あそん-ひでよし」となる。ここでいう「姓」は現代の名字とは異なり、厳密には血縁的な集団を示す「氏」にあたる。 本稿では分かりやすさを優先して「姓」と表記する。
「とよとみ」の後に「の」を付けて読むのが正式だ。平安時代に摂関政治の頂点にいた藤原道長を「ふじわら-の-みちなが」と読むのと同じである。豊臣は藤原・橘・源・平の「源平藤橘」の4つと並び立つ、朝廷から賜る5つ目の「姓」として誕生したわけだ。
ドラマでは豊臣の意味するものを「万民を豊かにする」としていたが、これは通説で、文献史料に語源の裏付けはない。ただし、秀吉が考案した「姓」だったとは考えられ、そのことは豊臣の右筆(文書の記録を担当する文官)、大村由己が書いた『関白任官記』の次の記述から察せられる。
1.関白に任じられるため藤原姓を賜ったが、古くからの「姓」を継ぐことは鹿や牛の足跡を踏む(前例を踏襲する)ものである。
2.改めて「姓」を五つとするのは今このときである(中略)いつまでも続くような「姓」を賜った。すべてに人が心地よく楽しくなり喜んだ。
秀吉はなぜ「藤原」では満足できなかったのか
1は、関白の座に就くにあたって藤原氏の嫡流である近衛龍山(前久)の猶子(親子関係を結んだ子)となり、「藤原」を名乗ったが、それでは前例にならうだけ。そこで2では、未来永劫続く5つ目の「姓/豊臣」としたところ、すべての人が喜ぶ事態となった――と述べている。
いかにも秀吉らしい自画自賛といえよう。
『関白任官記』は天正13(1585)年7月の関白就任、および同年9月、豊臣姓を名乗る頃を記録した文献で、他にも秀吉を「高貴な人物(天皇)のご落胤」と示唆するなど、明らかな経歴詐称が見られる。おそらく秀吉の意を汲み、出自を“盛った”のだろう。
だが、だからこそ上記の1、2も秀吉が、「このように書け」と指示した可能性が、十分にあり得るのだ。
「姓」について、もう少し詳しく話したい。
「姓」とは前述の通り源平藤橘が有名で、これは京の発祥だ。だが時代が進むと、源平藤橘から地方に移住する庶流(分家)が増えた。そうすると、それらすべてを4つの「姓」だけでは区別できないため、「姓」とは別に個々人を特定する名前が必要となった。
また武士の居住地も地方へと拡散していった。彼らも個々人を特定する方法として、各地の地名を称するようになった。
こうして誕生したのが「名字」だった。

