前田、上杉、毛利、伊達まで「豊臣」になった
秀吉は豊臣を名乗った天正13年末から、配下の諸大名に続々とこの「姓」を与えていく。歴史学者の堀越祐一氏は、その授与戦略から秀吉の狙いが読めるという。
まず、豊臣姓は武家のみに与えられた。前田・上杉・毛利・細川・伊達、さらに九州の島津ら、有力者の「姓」はことごとく豊臣となった。
また「姓」の授与を官位叙任とセットで行なってもいた。つまり官位に推薦するのと引き換えに、豊臣姓を押し付けたともいえるのである。藤原も源平も、半ば強制的に豊臣に変えさせてしまったのだ。秀吉の命を大名たちが拒めるはずもない。
有力大名がそろって豊臣になったことによって、武家貴族の擬似的な血縁集団を組織する――これが秀吉の狙いだった。
実際、徳川の「姓」は前述の通り源だったが、慶長2(1597)年、家康の子・秀忠が豊臣に変わっている。家康に関しては史料に見えないため例外だったという見方もあるが、慶長元(1596)年、家康が内大臣に昇進した際、「豊臣姓となったと考えるのが自然であろう」(堀越氏)という。
名だたる武家の一団「豊臣」の軍事力は他姓を圧倒した。
豊臣を名乗る以上、一族の「氏の長者」に従う義務も生じる。氏の長者とは摂関政治時代でいうと藤原道長であり、天正〜慶長年間の豊臣では秀吉だった。
譜代を持たない秀吉が頼った「豊臣」の力
秀吉は「譜代」と呼ばれる、自分に代々仕えてくれる家臣団を持っていなかった。例えば信長には丹羽・柴田、徳川には酒井・本多・榊原らがいたが、対して秀吉には秀長(弟)、秀次(甥)、小早川秀秋(妻の兄の子)ら身内はいたものの、黒田・蜂須賀らは秀吉の出世と共に臣従した者たちで、歴史は浅い。
そこで、豊臣の「姓」で有力者たちを囲い込み、擬似的な氏族を編成し、薄弱だった主従関係を補強したかったのではないかという(堀越氏)。また、秀吉に、「氏の長者」制度を踏襲・利用しようという懐古的傾向が強かったことは注目に値すると、堀越氏はいう。
堀越氏の意見を読んで、権力者が最終的に拠り所とするのは、やはり「権威」ではないか――と、著者は思った。

