光秀を討って初めて手にした「平」
秀吉の場合、最初の名字は「木下」――木下は一般的に「大きな木の下」を語源とする地名と考えられるが、秀吉はそもそも名字を持たない農民出身だったこともあり得るため、どういう経緯で名乗ったか、正確にはわからない。
その後、織田信長の重鎮だった丹羽長秀と柴田勝家から「羽」「柴」を一字ずつもらい受け、「羽柴」という名字となったというのが通説だが、この説も確たる証拠があるわけではない。いずれにせよ、この頃までの秀吉には名字はあっても「姓」はなかった。
「姓」を持つのは本能寺の変(天正10年6月2日)が起きて信長が没し、秀吉が明智光秀を討った4カ月後である。10月3日、秀吉は初めて朝廷から従五位下の官位を賜った。その官位を宣下するのに作成された文書に「平秀吉(たいら-の-ひでよし)」の名がある。
そう、秀吉は光秀を倒したことで朝廷から認められ、ここで初めて「平」を「姓」とした。なぜ平氏だったかは、自分を取り立ててくれた恩人・信長も平氏を名乗っていたからといわれている。
秀吉と信長の名を正式に記すと、次のようになる。
・織田平朝臣信長(おだ-たいら-の-あそん-のぶなが/官職の「上総介」を織田と平の間に入れることもあった)
・羽柴平朝臣秀吉(はしば-たいら-の-あそん-ひでよし)
秀吉はこの後、近衛龍山の猶子となり、天正13(1585)年7月に関白宣下を受け、平から藤原の「姓」となる。さらに同年9月に豊臣に改姓するのである。
家康の「源」も、信長の「平」も怪しい
秀吉と信長を取り上げた以上は、徳川家康のケースも紹介しておいた方が良いだろう。
・徳川源朝臣家康(とくがわ-みなもと-の-あそん-いえやす)
家康の「姓」は源氏だ。とはいえ令和5(2023)年の大河ドラマ『どうする家康』で「松平(徳川に変える前の名字)が源氏なんて怪しい」と、家康自身が吐き捨てるセリフが登場している。実際、松平の出自は上野国新田荘(群馬県太田市)で、先祖は河内源氏新田氏の支流・世良田氏だったというが、あくまで伝承である。
ついでにいうと信長の平氏も怪しい。信長は元亀年間(1570〜)以降、平清盛の孫にあたる資盛の流れを汲むといい出したことが、複数の史料などから確認できるが、それ以前の天文18(1549)年の制札(禁令などを書いた札)には、藤原の署名をしている(『加藤家文書』)。
信長の出自は越前の劔神社(福井県丹生郡越前町織田)の神官の家といわれるが、この社家の「姓」がそもそも藤原だったからだ。
つまり信長が平を名乗ったのも、唐突な印象を拭えない。戦国時代の武家は時代・状況によって「姓」を変えるなど当たり前で、それゆえに本当のところはわかりづらいのである。

